韓国が封印した「黒歴史」は、「元寇」の時や1965年の日韓国交正常化前の日本漁船大量拿捕など、日本人に対する残虐行為だけではない。近年、クローズアップされているのが、本誌でも度々報じてきたベトナム戦争における韓国軍の蛮行の数々だ。
次々と明かされる新事実を、韓国人はどのように受け止めているのか。在韓ジャーナリストの藤原修平氏が解説する。
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4月上旬、韓国の市民団体「平和博物館建立推進委員会」の招聘により、ベトナム戦争被害者のグエン・タン・ランさん(64)とグエン・ティ・タンさん(55)の男女2名が初訪韓を果たした。
ランさんは1966年2月に発生した韓国軍による「ビンディン省タイヴィン村虐殺事件」(犠牲者65名)、タンさんは1968年2月の「クアンナム省フォンニャット村・フォンニ村虐殺事件」(犠牲者74名)の生き残りだ。
2人は4月8日、釜山市で開かれた集会に出席し、当時の様子を生々しく語った。
「韓国軍は事件当日の午後4時ごろ、自宅の防空壕に隠れていた私と母、そして妹を見つけて村の外に連れ出しました。そこには既に、20世帯以上の村民が集められていた。そして、ある兵士が叫ぶと、四方から銃弾が飛んできて、手榴弾が投げ込まれたのです。
私は一命を取り留めましたが、妹は頭部を激しく損傷し、長い時間うめき声を上げながら絶命しました。下半身を飛ばされた母も、まもなく息を引き取りました」(ランさん)
一方、当時8歳だったタンさんは、この事件で家族と親戚5人を失い、自身も腹部に銃弾を受け重傷を負った。
「韓国兵2人が、村の防空壕に隠れていた私たち家族7人を発見し、手榴弾をちらつかせながら『出てこい』と呼びかけました。私たちが1人ずつ出ていくと、彼らは容赦なく銃弾を浴びせてきた。
最初に出ていった姉は即死、兄は腹部と臀部を撃たれ、6歳の弟は顔を銃で撃ち抜かれたのです。さらに彼らは私たちの家に火を放ちました。止めに入った叔母はナイフで刺殺されました。
家族の中で生き残ったのは私と兄だけ。兄はその後、身体も精神状態もボロボロになってしまった。日々、『死にたい』という気持ちを抑えながら生きています」
だが、2人の証言を報じた韓国主要メディアは皆無に等しく、大きく紙面を割いたのは韓国のリベラル紙『ハンギョレ』のみだった。