歴史の教科書でおなじみの「聖徳太子」。十七条の憲法を制定し、7人の話を同時に聞けるなどで有名なのに、じつは正体不明なのはご存じでしょうか。
独特な髪型で笏(しゃく)を持った肖像画は「お札」に使われる率ナンバー1で、戦前に2回、戦後は5回、計7回の不倒記録。ところが、法隆寺に保管されている原画には「川原寺」の文字がみつかり、「これが聖徳太子の肖像」かどうかはっきりしなくなりました。服装も後年のものだから別人じゃない? という説も根強く残っているナゾの人物なのです。
■「カンペ」を持ち歩く聖徳太子
歴史に興味がないひとでも、聖徳太子の名前は知っているでしょう。教科書や図鑑に記されている内容から特徴をあげると、
・飛鳥時代(592~710年)の人物
・冠位十二階(かんいじゅうにかい)や十七条の憲法を制定
ほかにも馬小屋で生まれた、同時に7人(10人説もある)の話を聞けるなど常人離れしたエピソードもありますが、文書にまとめた日本初の憲法を作った功績がたたえられ、「お札」にも肖像が使われています。7種類のお札に使われ、登場回数ナンバー1の人物なのです。
聖徳太子の肖像が使われたお札と発行された年をあげると、
・乙百円券(1930年)
・い百円券(1944年)
・ろ百円券(1945年)
・A百円券(1946年)
・B千円券(1950年)
・C五千円券(1957年)
・C一万円券(1958年)
と、時間とともに高額紙幣に使われるようになりました。余談ですが、手に持っている棒状のものは「笏(しゃく)」で、儀式の道具であるのと同時にメモを貼り付けておく「カンペ」でもあります。複数の話を同時に聞けたのも、笏を上手に使えたからと考えれば合点のゆく話です。
■誰も知らない素顔の「聖徳太子」
お札に採用される率1位の理由として、知名度が高い、功績や肖像をはっきりと示す資料がある、とされていますが、本当に聖徳太子? と疑問視する説も多いです。法隆寺に保管されている肖像画の原本から、別のお寺の名前がみつかったのです。
教科書でもおなじみの聖徳太子の肖像画は「唐本御影(とうほんみえい)」が正式名称で、これ自体に「聖徳太子の肖像です」と書かれているわけではなく、法隆寺の僧侶・顕真(けんしん)が記した「聖徳太子伝私記」の記述から唐本御影=聖徳太子と推測されています。法隆寺の僧が記し法隆寺に保管されている資料を疑う必要はないのですが、近年の調査で肖像画に「川原寺」という別の寺名が見つかりました。つまり、ほかの寺で保管されていた肖像画が法隆寺にまぎれ込んだとも考えられ、唐本御影と聖徳太子は一致しない説が浮かび上がったのです。
服装に異を唱える説もあり、「この服、飛鳥時代にはなかったんじゃね?」と、もっと後世のはず=別人では、と考える学者も少なくありません。聖徳太子がらみのイベントを時系列順に並べると、
・飛鳥時代 … 592~710年
・聖徳太子 … 574~622年
・聖徳太子伝私記 … 1,238年
で、はっきりした記録のない「推定」であっても、時代が離れすぎています。顕真が聖徳太子の記録を残したのは600年以上もあとの話で、実際に会って顔を確認したわけではないのです。
同時に「別人だ!」という決定的な証拠もなく、最近は「聖徳太子とされる肖像」と表現する書籍もあります。誰なのかはっきりすれば歴史的価値を持つかも知れないので、C一万円札を見つけたら、だいじに保管しておきましょう。
■まとめ
・聖徳太子が手に持っている笏(しゃく)は、カンペを貼り付けておく道具
・教科書やお札に使われる肖像画は、別人の可能性あり