北朝鮮で抑留死869人名簿…露の公文書館保管
第2次世界大戦後、旧ソ連が現在の北朝鮮に開いた「第53送還収容所」で死亡した日本人抑留者869人の名簿が、ロシアに残されていたことが分かった。
名簿には死因のほか、遺体の埋葬日、埋葬場所などが記されている。ソ連政府が作成した北朝鮮抑留死亡者名簿が明らかになるのは初めて。朝鮮半島での抑留の実態や死者の最期を知る貴重な手がかりとなりそうだ。
第53送還収容所は、ソ連が戦後、朝鮮半島北部の興南(現在の北朝鮮・咸興市興南地区)に設置、1947年4月にソ連領内のナホトカに移設された。死亡者名簿はソ連閣僚会議(政府)の送還業務全権代表部が作成し、ロシア連邦国立公文書館(モスクワ)が保管してきた。同公文書館はこのほど、46年11月20日から48年5月25日までの死亡者名簿や収容者の調書など167枚を、読売新聞に開示した。
A4判の紙にタイプ打ちされた名簿には、死亡者の氏名、出身地、死亡日、死因、埋葬場所などがロシア語で記載されている。内訳は軍人・軍属766人、民間人103人。死因のうち最も多いのは栄養失調で330人。結核や発疹チフス、赤痢など伝染病による死者も半数近くに上った。満足な食事を与えられず衰弱し、疫病が広がった惨状が浮かび上がった。
年代別では20歳代が約400人と最も多く、10人以上が20歳未満だった。性別の記述はないが、「アヤコ」「ヨウコ」など女性とみられる名前も30人分あった。
ソ連は日本の降伏後、満州(現中国東北部)や朝鮮半島、南樺太にいた日本の軍人ら約57万5000人をシベリアなどに抑留。鉄道敷設や森林伐採などの強制労働に従事させたが、病気やけがで重労働に耐えられなくなった人は朝鮮半島北部に移送していた。
朝鮮半島には約2万7000人が移送され、死者は1万2000人以上に達した。今回の名簿に記録された人の多くは、移送後も病や傷が癒えず、亡くなったとみられる。興南での死者数は768人、興南からの移設以降が101人だった。
一方、第53送還収容所を巡っては、厚生労働省が同じ死亡者の名簿を、2006年の時点でロシア政府から入手していたことも判明した。その事実は公表されておらず、死者についての情報は、遺族でも入手が難しかった。名簿などの資料の公開について、同省では「入手の経緯や一般の関心などを考慮して判断している」と説明している。
厚労省によれば、終戦前後の混乱や抑留などで、現在の北朝鮮では約3万4600人の日本人が死亡した。北朝鮮政府は昨年5月、遺骨調査を全面的に実施すると約束したものの、同年10月の日朝協議では、具体的な調査結果の通報はなかった。日本外務省は「厚労省が名簿を持っていることは知っている。北朝鮮との関係でどう扱っているかは、外交交渉にかかわるので答えられない」としており、北朝鮮が今回の名簿を調査の対象としているかは不透明だ。
北朝鮮からの引き揚げに詳しい国文学研究資料館の加藤聖文准教授は「今回のような記録を日本政府がきちんと解析すれば、北朝鮮の説明に矛盾がないかが分かり、遺骨の調査も具体的に求めることが可能だ」と指摘している。
【送還収容所】 ソ連軍参謀本部の指令で1946年11月から各地に設置した。強制労働を課した捕虜収容所とは役割が異なり、日本人捕虜や民間人を日本に送還する拠点となった。ナホトカ港に第380、南樺太の真岡港に第379、中国・遼東半島の大連港に第14、北朝鮮には興南港の第53と元山港の第51の収容所があった。日本軍時代の捕虜収容所や学校、病院などが転用され、共産主義教育も行われた。
◆遺族申請あれば 厚労省無料提供
厚生労働省は、ロシア政府から入手した抑留者の個人資料を遺族の申請があれば、日本語訳を添えて無料で提供している。北朝鮮の抑留者についても同様だ。
申請方法は郵送。「ロシア政府から受領した日本人抑留者に関する個人資料の提供希望」と明記し、〈1〉申請者の氏名、住所、電話番号、抑留者との続き柄〈2〉抑留者の氏名、生年月日、出生地を記載する。添付書類として〈3〉申請者の身分証明書か運転免許証、保険証などの写し〈4〉戸籍謄本など、抑留者の死亡と申請者との続き柄が確認できる書類〈5〉申請者の住民票(請求日前30日以内)を付ける。提供は基本的に写しの郵送。照合や翻訳に時間がかかることもある。抑留者の本籍地や応召時の住所、終戦時の身分や所属部隊などを記入すると照合が早い。
郵送先は〒100・8916東京都千代田区霞が関1の2の2、厚生労働省社会・援護局援護・業務課調査資料室。問い合わせは(電)03・3595・2465(直通)。