1990年代の音楽界を席巻した「ZARD」のボーカル、坂井泉水さんが2007年5月27日、40年の短い生涯を閉じて、はや8年の歳月が流れた。昨年末、小田急線・渋沢駅(神奈川県秦野市)では、同市とゆかりがある坂井さんを偲び、「駅メロ」にZARDの曲が使われるなど、死後もその功績が薄らぐことはない。「負けないで」や「揺れる想い」などのミリオンセラーを連発した華々しい功績とは裏腹に、メディアの露出が極端に少なかった“歌姫”。その知られざる素顔を改めて振り返ってみよう。
謎に包まれた歌姫の生涯は、最後の最後までミステリアスだった。
「坂井泉水さんの転落死のニュースは、所属事務所の発表を受けてテレビ局が臨時テロップで流した。ただ、確認できた彼女の年齢は二つあり、捜査員は年齢を確認するだけでも混乱したんです」(当時の捜査関係者)
坂井さんは1967年2月、神奈川県平塚市で生まれている。彼女のプロフィルは公表されることはなかったが、「ZARD」としてデビューする前、彼女は本名の蒲池幸子として、タレント活動をしていた。当時のプロフィルは「1969年2月生まれ」だった。
ミステリアスなのは、これだけではない。 坂井さんは2007年5月26日午前5時42分ごろ、東京・信濃町の慶応義塾大学病院の非常階段付近で大量の血を流して倒れているところを発見された。スロープ状になっている高さ約3メートルの地点から転落して後頭部を強打したとみられ、発見後、救急病棟に運ばれたが、翌27日の午後3時すぎに脳挫傷のために死亡した。
警視庁四谷署では当時、事故と自殺の両面で捜査していた。
「手すり部分には手の跡が残っていた。腰を掛けていてそのまま後方に転落したとの見方が有力だった」(前出の捜査関係者)
坂井さんは06年6月に子宮頸がんを患い、全摘出手術を受けて回復の兆しを見せていた。だが、肺への転移が見つかり、07年4月から入退院を繰り返していた。事故現場の非常階段は、日課としていた散歩のコースだったようだ。
そんな坂井さんのアーティストとしての経歴は、実に華々しい。93年にはシングル「負けないで」が164万枚を超える大ヒット。その後、「揺れる想い」「マイ フレンド」も100万枚を突破した。亡くなった07年当時に、CDやDVDの総売り上げは、3600万枚を超えていたという。
だが、テレビ番組に出演したのはわずか数回。ファンの前に生の姿を見せたのは99年のライブと、04年のライブツアーだけだった。
ファンにさえ、実像をほとんど知られていない坂井さんだが、その短い一生からは音楽への強いこだわりがうかがえる。
●伊藤英明に似た先輩にフラれる
坂井さんは神奈川県秦野市内の小・中学校に通い、1982年に県内の高校に進学する。高校時代の親友が語る。
「控えめな性格でしたが、天然ボケのところがあってマイペースな子でした。本名から『サッチ』と呼ばれていました。歌手の大沢誉志幸の曲『そして僕は途方に暮れる』が好きで、よくノートに歌詞を書いていました。授業中にも書いていたんですが、先生が近くに来たのに彼女はまったく気がつかず、先生に教科書で頭をポカンとたたかれていました」
スポーツも万能で高校時代は硬式テニス部に所属。校内のミスコンで優勝し、他校の男子生徒がのぞきにくるほど、彼女の評判は広まっていたという。
そして、思春期ならではの甘酸っぱい恋愛も。
「高校1年のとき、彼女は俳優の伊藤英明さんに似た先輩を好きになって告白したんですが、なぜかフラれて相当ショックを受けていました。『サッチをフッたなんて信じられない』と、女子生徒からブーイングがあがりました」(前出の親友)
3年生に進級すると、坂井さんはバンド活動に強い関心を示し、周囲の友人に「テニス部も夏で引退するし、バンドを組みたいな」と漏らしていたという。
「バンドを組んでいる同級生に、彼女は『バンドに参加したい』と頼んでいました。本人はかなり熱心でしたが、どのバンドにも空きがなく、実現しませんでした」(元同級生の男性)
坂井さんは高校卒業後、神奈川県内の短大に進学。OL生活を経て芸能界入りする。といっても、そこは歌手とは畑違いのキャンペーンガールの世界。89年には「東映カラオケクイーン」、翌年はレースクイーンとして活動したが、音楽への情熱はますます高まっていた。
当時の仕事仲間、タレントの岡本夏生さんは、坂井さんと仕事帰りに行ったカラオケのことをよく覚えているという。
「高橋真梨子さんのバラード『for you…』を歌詞も見ずに、気持ちを込めて歌っていました。ふだんは10話しかけても2しか返さないぐらいおとなしい子でしたが、歌うときの自信に満ちた姿には、歌手を目指す強い信念を感じましたね」
坂井さんが「歌手になるのが夢なんです」と、大学ノートにビッシリと書いた自作の詩を見せてくれたことがあるという。
「彼女は詩を書きためたノートをいつも持ち歩いて、仕事の合間にも詩を書いていました」
岡本さんは、坂井さんから「好きでもない男性に言い寄られて困っている。恨まれないようにうまくかわしたいんだけど、どうしたらいい?」と相談されたこともあったという。恋愛については、歌ほど器用ではなかったようだ。
そんな坂井さんも91年、ZARDのボーカルとしてシングル「Good-bye My Loneliness」で念願の歌手の仲間入りを果たす。彼女の才能に目を付けたのが、人気バンド「TUBE」や「B'z」などを手掛けた音楽プロデューサー、長戸大幸氏。以後、坂井さんは、長戸氏の音楽事務所「ビーイング」に所属することになる。
「当時は無名の歌手でしたが、『夜の番組で私の歌が使われるの』と喜んでいました。つやのある長い黒髪がきれいで、芸能人というよりは超美人のOLといった印象でした。芸能人であることを隠そうとして、だてメガネをかけていましたけど、レンズが入っていないので逆に目立っていました」(知人の美容師)
93年には代表曲「負けないで」が大ヒット。そのころ、ラジオ番組で対面した音楽評論家の富沢一誠氏はこう話す。
「写真で見たイメージどおりの美人でした。女性アーティストのなかには、人気が出てくるとおごりが見える人もいますが、そんなところはなかった。一つひとつの質問を受けとめて、言葉を選んで話す。文学少女のイメージがぴったりの女性でした」
●「美人」と言われテレビが嫌いに
だが、ヒット曲を連発しても、メディアへの露出は控えたままだった。ファンの前に初めて生の姿を見せたのは、デビューから8年後の99年8月。アルバム購入者を対象にした、クルーズ客船でのライブだった。
「このライブは、彼女が所属する『ビーイング』の総帥、長戸氏が来場して、坂井さんのかばん持ちをしていたほどの力の入れようだった。リハーサル中も、坂井さんが指示する照明や音響への注文もいちいち聞いていた」(芸能記者)
坂井さんのように、メディア露出を控えることで“価値”を向上させ、タイアップを駆使する戦略は、当時、音楽業界で「ビーイング商法」と呼ばれていた。
この戦略は、歌と私生活を大切にしたいという坂井さんの志向と重なり合っていたようだ。
彼女の数少ない肉声が聞けるイメージビデオ「Body Works」(大陸書房)。そのなかで坂井さんはこう話している。
「仕事に入ってから、自分が興味を持つ対象物がけっこう変わっちゃったなと。(友達と話す)話題や内容なんかが違って、話す機会が少ないんです」
前出の親友も言う。
「彼女は『きれい』とか、『美人』と言われるのが嫌で、歌番組の共演者に『きれいな人』と何度も言われて、テレビ嫌いになったと聞いています」
ミリオンセラーを連発しながらも、坂井さんは派手な振る舞いを避け続けた。人気絶頂期の96年11月には、東京の都心ではなく、郊外の町田市に一戸建てを新築。40坪足らずの新居に親を呼び寄せたが、
「町内会に入ることも、近所付き合いもなかった」(近所の住民)
自宅には約105平方メートルもの地下階がある。坂井さんはそこで、歌の練習や作詞活動でもしていたのだろうか。
また、プロモーションビデオ(PV)を巡ってはこんな話もある。坂井泉水さんが残したPVを見ると、彼女の横顔やうつむき加減の映像が圧倒的に多いことに気づかされる。PV制作は通常、シナリオに沿ってアーティストが演技をして作品を完成させていくのが一般的だが、
「坂井さんの場合は、他のアーティストとまったく手法が異なっているんです」
そう語るのは、1991年のデビュー以来、坂井さんを撮り続けてきた映像制作担当者である。
「レコーディングや何げない日常の風景を撮るために、片隅で長時間カメラを回しました。作りこんだ映像よりも自然体の彼女のほうが魅力的だった。このため、自然と横向きの映像が多かったのです。本人もそういった映像を気に入っていました」
ロケで20時間もカメラを回しながら、実際には1分程度しか本編で採用されなかったこともあったという。作品に妥協しなかったという、彼女のストイックな一面がうかがえる。
「PVというよりドキュメント番組に近い作りだと思います。16年間で残された未公開映像は膨大な量になりました」
メディアへの露出が少ないためか、街角で突然ファンにサインを求められる経験も少なかったようだ。こんなエピソードもある。シドニーのロケでの出来事だ。
「坂井さんが散歩している姿を撮影していると、気がついた日本人の新婚カップルがサインを求めてきました」
坂井さんは少し困ったような表情を浮かべて、映像制作担当者のもとに歩み寄り、こう言ったという。
「こういうときって、サインしてあげてもいいんですよね?」
この担当者が「してあげればいいんじゃないかな」と答えると、うれしそうな様子でサインに応じたという。
05年末、小さな水族館を併設した東京・恵比寿のレストランで撮影した。海が好きな坂井さんはシチュエーションがとても気に入ったらしく、「今度は水族館で撮影したい」と自ら撮影を企画。07年4月には水族館でのロケを予定していた。
だが、撮影日の数日前になって、坂井さんから撮影担当者に一通のメールが届いた。
〈また治療のため入院しなくてはいけなくなったので、撮影できなくなってしまいました〉
子宮頸がんの摘出手術を受けたものの、がん細胞が肺に転移していたのだ。
「一度お見舞いに行きました。彼女はもどかしかったでしょうね。『早く仕事がしたい』と。いつもスタッフに心遣いをみせていた彼女は、帰り際にベッドから起きてわざわざエレベーターの前まで見送ってくれました。それが坂井さんと会った最後でした」
前出のビデオで、坂井さんは「幸せとは?」と問われて、こう答えている。
「自分の好きなことを、一生やり続けていけることだと思います」
亡くなった年の秋には、アルバムの発売とライブツアーを行う計画があった坂井さん。闘病中も病床で詩を書き続けていたというが、その一生は幸せだったのか。やはり無念だったのか。
いくら問うても、「永遠」に「君がいない」――。
(週刊朝日「2007年6月15日号」、「同年8月24日号」)