2020年の東京五輪招致決定の際に、世界中で話題となった「おもてなし」。ジーコもまた日本時代に「おもてなし」をいくつも経験している。
鹿島時代、ジーコは自らチームをもてなした。1993年4月のイタリア、95年2月のブラジルへの海外遠征で、「何か足りない部分はないか」「ホテルはみんな満足しているか」「食事は大丈夫か」…。「選手だけでなくスタッフの連中にも聞いてくれ」と連日、私に声をかけてきた。この遠征でジーコは、現地での手配をすべてこなした。
ジーコは日本代表監督時代の4年間、東京・渋谷の一軒家に住んでいた。日本サッカー協会から希望を聞かれ、「庭があればどこでもいい」と、マンションではなく一軒家を選んだ。
表札もかけていなかったが、郵便受けにひらがなで「さいんをください」という子供が書いた手紙と色紙が入っていたことがある。それも一度ではなかった。
ジーコはそのひとつひとつにメッセージを書いて「ZICO」とサインを書いた。「子どもの名前はわからないのか」と無理難題を言われた。それを郵便受けに置いておくと、サインはいつの間にかなくなり、「ありがとう」というお礼の手紙が入っていた。
そんなジーコに、日本サッカー協会のスタッフも完璧なおもてなしで対応した。「自宅で何かあったら大変ですから」とスタッフが通勤用のビジネスバッグの中に大工道具一式を入れていたこともある。
日本代表の海外遠征では練習後にスタッフとランニングをしてミニサッカーに興じた。往年のスーパーな足技を披露したのは、ジーコなりのスタッフへのおもてなしだったといえる。
ジーコは日本のあと、トルコ、ウズベキスタン、ロシア、ギリシャ、イラク、カタール、そしてインドで監督業を続けた。「オレとカミさんはいつも言っている。日本はすべてにおいてベストな国だと。離れてみて本当に痛感した。人、物、すべてが最高だよ、日本は」。“おもてなしのパス交換”の賜物だと今も思っている。 (元日本代表通訳・鈴木國弘)