奈良公園(奈良市)一帯に生息し、国の天然記念物に指定されている奈良のシカ。公園周辺では、観光客が買った鹿せんべいに群がる姿を日常的に見る。その様子に、「なぜ販売所を襲わないんだろう」という疑問を抱いた人もいるのではないだろうか。インターネット上でも「奈良のシカは、販売所を襲わない」といううわさがまとしやかに書かれている。
だが、奈良の鹿愛護会などによると「それは全くのデマ」。奈良のシカと販売所の間では、“目に見えない戦い”が日々繰り広げられている。
だが、観光客が多く立ち寄る県庁正面の販売所で、販売員がシカと“格闘”している姿を見ることはない。前出の女性販売員は「ちゃんとシカを“教育”して、油断しなければ狙われることはない」と話す。
教育といっても当然、たたいたりするわけではない。シカの前でパンパンと手を鳴らしたり、「口で言って聞かせる」ことで、販売所を狙ってはいけないとシカに覚えさせることができるのだという。
しかし、奈良のシカは人に慣れているとはいえ野生動物。「悪いと分かっていても狙ってくる。だから、目を向けるとさっと逃げていくシカもいる」(同)といい、狙わなくなるわけではないらしい。
観光客が少ないときには、売り物にならない割れた鹿せんべいをやる販売員もいるという。さまざまな工夫を凝らして、うまくシカをコントロールしているようだ。
愛護会の吉岡豊獣医師によると、シカ1頭が1日に食べる草は約5キロ。鹿せんべいの材料は米ぬかや小麦粉で草よりも高カロリーだが、1枚の重さは約3~4グラムしかない。「何十枚食べようが、シカにとってはおやつみたいなもの」(同)なのだという。
確かに、観光客が多い日のシカは、午後には差し出された鹿せんべいに見向きもしなくなることも。シカにとって鹿せんべいは、生きるための糧とは少し違うのかもしれない。
とはいえ、鹿せんべいが、奈良のシカを支えていることに変わりはない。鹿せんべいは、愛護会が販売する証紙で束ねて売られている。この証紙の売り上げは年間約3000万円にも上り、けがをしたシカの保護や出産の補助などの費用にあてられている。
もし、せんべいが食べられ放題になればシカは自分の首を絞めることになる。とはいえ、販売員が厳しく追い払ってシカが寄りつかなくなれば、せんべいの存在意義も失われてしまう。
「奈良のシカは、販売所を襲わない」というデマは、絶妙なさじ加減でシカと共存する、古都の工夫の結果ともいえるだろう。