昭和天皇は戦後も、首相や閣僚と個別に会い、所管事項について口頭で報告を受ける「内奏」を通じて国政に関して意見交換し、歴代首相らは天皇の発言を重く受け止めてきた。史料や日記などの公開で天皇の政治的発言が公になることはあった。ただ国連中国代表権問題が佳境を迎えた1971年、昭和天皇が佐藤栄作首相(当時)に「蒋介石支持」を促し、佐藤氏がそれを米大使に伝えていたことについて、成蹊大学法学部の井上正也准教授(日本外交史)は「外交問題で昭和天皇が明確な姿勢を示した記録は珍しい」と解説する。
日本国憲法は第4条で「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と明記している。しかし「内奏」に関する著書がある愛知学院大学文学部の後藤致人教授(日本近現代史)は「戦後になっても天皇は立憲君主意識を持ち続け、外交に関しても首相に御下問を通じて意見表明した」と語る。
「昭和天皇」の著作がある日本大学文理学部の古川隆久教授(日本近現代史)は「内奏の際に昭和天皇が要望や希望という形で意見を述べること自体は珍しくない。普通はこれを口外せず、もしその政治家が天皇の意見を正当だと認め、自分の意見として表明し、実行に努めるという形であれば問題にならないが、内奏者が口外すれば政治的利用ということになる」と説明する。
内奏が政治問題として表面化したのは、73年に当時の増原恵吉防衛庁長官が、内奏後の記者会見で「国の守りは大事なので旧軍の悪いことはまねせず、いいところを取り入れてしっかりやってほしい」という昭和天皇の発言を紹介し、「国会での防衛二法の審議を前に勇気づけられました」と述べた問題だ。「天皇の政治利用」と批判され、増原氏は辞任に追い込まれた。
71年6月に佐藤首相は米国のマイヤー駐日大使に、「蒋介石への支持」を促した昭和天皇の発言を伝達したが、それに先立つ1月にも中国問題を天皇に内奏。佐藤首相はその日の「日記」に「陛下の御心配は台湾の処遇にある様子」と記している。後藤氏は「佐藤首相は戦後歴代首相の中でも特に天皇に畏敬の念を抱いてきた」とした上で「保守政治家にとって昭和天皇の言葉は重く、政策意思決定に無関係であったとは思わない」と解説する。
日本の外交文書によると、国連代表権問題で米国以上に中華民国(台湾)の議席確保にこだわった佐藤首相は、マイヤー大使に「日米は相互に協力して打つべき手を打っていかなくてはならない」と訴えた。しかし、その4カ月後の71年10月に台湾は代表権を失う。
古川氏は「佐藤が天皇の発言を利用しようとした意味は、万が一(発言が)漏れれば政権や皇室を揺るがす可能性さえある危険なことをしてしまうほど、台湾支持政策が正統性を失いつつあったことの一つの証拠ではないか」との見方を示した。