観察者網は6日、「日本はもはや飲むものも食べるものない状態で間もなく降伏したであろうに、米国はなぜさらに原爆を落としたのか」とする文章を掲載した。
1945年8月、米国は日本に対して2発の原子爆弾を続けて落とした。現在に至るまで唯一行われた核兵器による攻撃である。米国が日本に原爆を落とした理由について観察者網は「日本に降伏させるため」、「日本への本土上陸の必要がなくなるから」といった従来の説を否定したうえで、以下のように論じている。
例え原子爆弾がなくても、日本は1カ月と持たなかった。遅くても10月には降伏することになったはずだが、米国人はそれが待てなかったのだ。なぜなら、45年2月のヤルタ会談で、米国はソ連を対日参戦させるために、ソ連が出した「外モンゴルの独立状態維持、04年の日露戦争以前のロシアの権益回復、千島列島のソ連への割譲」という厳しい条件を飲んでしまったから。ソ連にとってこれほど有利な条件を出したことについて、聡明なルーズベルト米元大統領の生涯において最大の失策だった評する人も少なくない。
ただ実際、同大統領の考えかたは十分理解できるものだった。45年2月は米国が太平洋での反攻で最も苦しんでいた時期であり、彼らは戦線が日本本土に近づくほど日本の抵抗が頑なになってくることをはっきり認識していた。同盟国陣営のソ連を対日戦で傍観させておく訳にはいかない、戦闘に参加させなければいけないと考えたからこそ、手厚い条件を与えてまでしてソ連の出兵を取り付けたのだ。
ところが45年8月になると、状況は予想と全く違うものに。戦争の進展が速く、日本はもはやいくらも持たず、ソ連が出兵してもしなくても大勢に影響がなくなってしまっていた。一方ソ連はこの時期の出兵で利益を得ることができたのだ。ヤルタ会談ではソ連がドイツ降伏から3カ月後に対日戦争に出兵することを約束。ドイツは5月9日に降伏したため、ソ連の対日参戦は8月9日ごろとなった。そこで米国は、ソ連が出兵する前に慌てて日本に降伏させ、ソ連に好条件を与えないように画策したのである。
ゆえに、正確に言えば、原子爆弾は日本の降伏を決定づけるものではなく、日本の速やかな降伏を促すものだったのだ。原子爆弾は戦争の進展を変化させた決定的な原因ではなく、戦争の進展を加速させる原因に過ぎなかったのだ。そしてすべては、軍国主義の消滅のためでも、米国兵を守るためでもなく、ソ連との約束を反故にするためだったのである。