一衣帯水の隣国と言われながら、実際に接する機会が少ない日中両国民。北京大学の徐●(シュー・ベイ、●はくさかんむりに「倍」)さんはテレビで見た日本人と実際に接した日本人の印象について、次のように作文につづっている。
血だらけの槍を振り回しているちょび髭の軍人たち。それが私がテレビで知った最初の日本人だった。小学生だった私は「日本人って人殺しばっかりね」と言った。そばにいる父は「お前のおじいさんは日本人に殺されたんだ」とひとこと言って黙り込んだ。その日から私にとって日本人は敵になった。
数年後、私は大学の入学通知を受け取った。そこには日本語学科と記されていた。友人や親戚は「本当に日本語を勉強するの?」と聞いてきたが、私は答えることができなかった。そんな私を見て父は言った。「仕方ない。せっかく受かった大学なんだ。適当にやり過ごせばいい」。私も覚悟を決めた「たった4年だ、我慢しよう」。
日本語の勉強を始めて1年半が過ぎた頃、1人の日本人留学生が私の語学パートナーになった。跳んだりはねたりして近づいてきた彼女は、「ルミでーす。新潟大学から来たの、よろしくね」と笑顔で言った。「ルミねえって呼んで、私は3年生だけど、あなたはまだ2年でしょ」。あっけにとられている私にルミは「ねえ、雪景色を見に行こうよ」と提案した。「新潟の雪は1メートル以上も積るんだよ。私は雪が大好きで、初めての中国で中国人の友達と雪景色を見れるなんて幸せ!徐ちゃんの名前、どんな意味?」「つぼみの意味です」「素敵ー!これから花になるってことだよね。よし、それじゃあ花ちゃんと呼ぼう」。別れ際に私は挨拶のつもりで「ありがとう」と言った。ルミは私の手を取ると「これから花ちゃんの日本語も、ルミねえの中国語も上手になるよう頑張ろうね」と言ってガッツポーズをした。
このように、ルミは私が初めて接した日本人となった。それから1年半、彼女と一緒にいろいろと楽しんできた。ある日、私はふと祖父の話をした。日本人に殺されたというと、ルミは黙って涙を流した。私は慌てて「ごめん。ルミねえを責めたいわけじゃないの」と言ったが、ルミは泣き続けていた。私は会ったこともない祖父のために泣いたことがなかった。しかし、ルミは私の祖父のために泣いてくれた。それは笑い転げて過ごした2人の日々のたった一度の例外だった。
それからしばらくして、ルミの帰国の日となった。私はルミが大好きな牡丹の種をプレゼントした。「花が咲いたら花ちゃんを思い出して」。私の言葉にいつもはしゃいでいるルミは何も言わず、私に背中を向けて泣き出した。「いつか日本に来てね」「うん、約束する」私は小指を出してルミと約束した。それからの2年間、私は数え切れないほどコンテストに参加した。そしてついにスピーチコンテストで優勝し、夢にまでみた東京決勝戦参加の資格をつかんだ。ルミに連絡したら、自分のことのように喜んでくれ、東京の地図と自分の住所への路線図を送ってくれた。東京についた翌日、ルミのアパートに行ってみた。プランターは牡丹の花でいっぱいだった。「ほら、あの時の牡丹だよ」。ルミは笑いながら言った。私の目からはいつのまにか涙がこぼれていた。
帰りの飛行機の中、私はもう一度、遠ざかる緑の島国、日本を見た。そこにはもう敵なんかいない。そこにいるのは私の初めての外国の友人、そして私の一生の友人、ルミねえだ。