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京都「太秦空襲」

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京都「太秦空襲」
第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年4月16日、京都市右京区太秦を米軍機が爆撃した「太秦空襲」から70年が過ぎた。2人が亡くなったが、市内の他地域の空襲と違って狙われたのが軍需工場だったこともあって、記録は少ない。仲間を亡くしながら間一髪で助かった元工員や学校の校舎から目撃した人たちは「一生忘れない。空襲の事実を伝えたい」と語る。

 爆撃されたのは、国策で44年1月にできた三菱重工業京都機器製作所で、空襲時は「第十四製作所」と秘匿名に改称。工作機械が並び、航空機用エンジンバルブの生産拠点だった。

 「ヒュルヒュルって音がしたと思ったら、ドカーンと。コンクリートなどが降ってきて真っ白になった」。製作所で働いていた本間健三さん(85)=右京区嵯峨=が振り返る。

 昼休みに入ったところだった。一緒に通勤していた先輩の工員に「飯行くわ」と声を掛け、建物を出た。そばの日なたに座り、弁当を広げた直後、建物に爆弾が落ちた。屋根は吹っ飛び、折れ曲がった鉄骨の上の方に誰かのズボンが引っかかっていた。先輩が犠牲になった。

 本間さんは頭がこぶだらけになった。「自分も死んでもおかしくなかった。死んだのは名字を蔦(つた)と言い、4年ほど年上だった」。帰宅しようとすると、憲兵に足止めされたという。

 「工場の西半分には大きな穴が開き、機械は鉄骨の屋根の上に飛び上がり、目を覆うばかりの惨状でした」-。製作所の50周年記念文集「うずまさの想い出」に元従業員が記している。

 「工員さんが死んだと、うわさで聞きました」。そう話す大藪(旧姓広瀬)寿美子さん(81)=右京区太秦=は当時、太秦国民学校(現太秦小)6年。空襲警報が鳴り、給食のパンを持って入った防空壕(ごう)でごう音を聞いた記憶がある。

 同学年だった夫の忠司さん(81)は校舎2階で、爆音とともに南の方角に土煙が5、6本高く上がったのを目撃した。「海に水柱が上がるようにダダダダーッって。一生忘れんわ」

 周囲は竹林や田畑が広がっていた。忠司さんによると、爆弾は製作所から約500メートル西側、有栖川左岸の畑にも落ちた。農家3~4人が集団疎開している児童に送る野菜を収穫していたが、無事だったという。

 京都は他の大都市のように空襲で焼け野原になることはなかったが、45年1月の馬町空襲(東山区)や6月の西陣空襲(上京区)では犠牲者が多数出て、住民らによって慰霊碑が立てられている。だが、太秦には空襲を伝えるものはない。

 本間さんは「三菱の空襲を知る人も少なくなってきた。軍需工場だった場所で人が亡くなったことを、元気なうちに言い残したい」と話す。

<太秦空襲>1945(昭和20)年4月16日正午、250キロ爆弾10発が右京区太秦巽町の第十四製作所ほか4カ所に落とされた。被害は死者2人、重傷11人、軽傷37人、半壊住宅3(「知事事務引継演説書」より)。「三菱重工京都精機製作所五十年史」には「機械工場が被爆し、死者2人、重・軽傷者約40人」とある。「京都府警察史」では馬町や西陣の空襲に触れているが、太秦空襲は記述が一切ない。(京都新聞)







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