〈海角七号真実版! 日籍師寄信找台湾学生(海角七号の現実版! 日本人教師が台湾の学生に送った手紙)〉
ここで引き合いに出されている『海角七号』とは、2009年に日本でも公開された台湾映画『海角七号─君想う、国境の南』のこと。日本統治時代の台湾で日本人教師が台湾人女学生に宛てて書いた恋文を、現代の台湾で郵便局員が『海角七号』といういまは存在しない昔の住所をたよりに送り届ける物語で、台湾では記録的なヒットとなった。
その『海角七号』のような奇跡が、現実に起きたという。台湾統治時代に教師をしていた106歳の日本人女性が台湾の教え子に出した手紙が、住所不明だったものの現住所を探し出した郵便局員の手によって届けられ、実に「80年ぶりの交流」を果たしたというのだ。
小学生の時に警察官の父とともに台湾に渡った高木波恵さん(106歳)は、台中第一高等女学校(現在の国立台中女子高校)を卒業後、烏日公学校で教師として10年間過ごした。その後は長女の出産を機に退職し、終戦とともに日本に引き揚げた。
公学校とは、日本語ができない台湾人生徒を対象に設立された小学校。高木さんは故郷の熊本に戻った後も、教え子と手紙での交流を続けていたが、最後に手紙を送ってからは20年以上が過ぎていた。
今年1月、日本統治時代の高校野球を描いた台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』が日本で公開されたのをきっかけに、日本の新聞が、当時、台湾にいて高校野球の試合をラジオで聞いていた高木さんのもとへ取材に訪れた。
高木さんは、80年以上昔の思い出話を語って聞かせた。『KANO』は、日本統治下の台湾にあった嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)が、日本人・台湾人・原住民の混成チームをつくって甲子園で準優勝したという実話を元にした作品だ。
当時を思い出したことで、高木さんはかつて小学2~3年生のクラスの班長だった教え子の楊漢宗さん(88歳)宛てに手紙を書こうと思い立ち、娘に代筆を頼んだ。
手紙は〈春節おめでとうございます。二月十八日 はるか日本国より久方ぶりに楊漢宗様へ〉で始まり、〈なつかしい烏日公学校卒業の皆様、お元気でしょうか〉と、かつての教え子たちの無事を尋ねる内容だった。
手紙は2月下旬に台中市の烏日郵便局に届いたが、宛先不明で局内にしばらく保管されていた。高木さんが書いた宛先の住所は、『海角七号』同様、今は存在しない住所だったからだ。
届けられないままの封筒を見つけた入局3年目の郭柏村さん(28歳)が日本に送り戻すべきかと上司の陳恵澤さん(56歳)に相談したところ、陳さんは美しい毛筆で書かれた宛先と、8mmほどもある封筒の厚さを見て「これは大切な手紙に違いない」と確信し、郭さんを含めた4人のチームを組んで現在の住所を探すことにした。
「この名前知りませんか?」と一軒一軒尋ね歩き、番犬に吠えられたりもしながら探し続けること12日間。ようやく楊漢宗さんの息子である楊本容さん(68歳)の元に届けられた。
楊漢宗さんは現在パーキンソン病で身動きが取れないが、ベッドの上で息子の本容さんが手紙を広げてみせると、嬉しそうに何度も頷いた。手紙にはほかにも何人もの教え子の名前が列挙され、元気かどうかを〈成績優秀な明晰な楊様におたずね致します〉と書かれていた。その手がかりとして、当時の卒業写真とクラス名簿が同封されていた。
パーキンソン病の父に代わって、同級生を探し出す役目を担ったのが息子の本容さんだった。
名簿をもとに父の同級生を何人か探し出し、高木さんからの手紙を見せて回った。教え子たちはみな驚き喜び、幼少期の記憶に残る日本語を思い出しながら、高木さんに返信の手紙を日本語で書いて送った。すると高木さんは一人ひとりの生徒にさらに返事を書き、卒業以来、80年ぶりに旧交を温めた。