豊臣秀吉の京都改造で、都を囲って造られた城壁「御土居(御土居堀)」が静かなブームとなっている。テレビ番組の影響もあり、御土居を巡る人たちが急増中。江戸時代の京都でも存在感を示し続けた巨大な構築物の魅力に迫った。
タレントのタモリさんが京都市内の御土居を訪ねたテレビ番組が今年放映され、御土居ブームに火が付いた。見学者は昨年の約7倍に激増。タモリさんを案内した京都高低差崖会の梅林秀行さん(41)にガイドを頼み、御土居が比較的よく残る北側を巡った。
土塁の状態がよい玄琢下の御土居(北区)の柵内に市の許可を得て入った。せりたつ巨大な御土居と堀跡が約250メートルにわたって残る。下から見上げると大きさが際立ち、頂部に登ると京都の街が見渡せた。上部は平たく人工の構造物を感じさせ、まるで「進撃の巨人」の城壁のよう。御土居が出てくる時代劇は見たことがないが、江戸時代の京都を描くなら風景にあってもよいとも感じる。秀吉は延長22・5キロの壮大な城壁を4カ月ほどで完成させた。梅林さんは「この巨大なグリーンベルトがほんの少し前まで京都を囲んでいたのです。地方政権では無理な惣構(そうがまえ)で、全国規模の豊臣政権がなせる構築物ですね」と話す。
次は、御土居の北西角となる鷹峯を目指して歩く。琳派400年で話題の光悦村があった辺りだ。途中で「鷹峯旧土居町」の名前が残る住宅地を通る。御土居の基底を利用して築いた住宅の高低差が続く。御土居の曲がり角となる鷹峯で、名物「御土居餅」を売る菓子屋「光悦堂」で鍵を借りて柵内へ入る。北野天満宮(上京区)の御土居と同様に河岸段丘に土を盛り、西側の天神川を堀に利用したのが北西部の特徴だ。
コーナーの眺めを堪能してから鷹峯街道に戻り、鷹峯藤林町を下がる。梅林さんが「街道の東側を見てください。古い町家が少ないでしょう」とささやいた。江戸時代、幕府の医官も務めた藤林道寿の一族が管理した「薬園」が街道の東側にあったからだという。御土居以外の発見も多い。
「しょうざんリゾート京都」に近い紙屋川沿いの御土居には史跡公園が整備されている。梅林さんは「公園内にある『あずまや』の場所には番小屋がありました」と解説する。さらに南へ下がって佛教大周辺を歩く。かつて蓮台野村と称された地域で、水平社宣言「人の世に熱あれ、人間に光あれ」の碑に案内してくれた。かつて近くに全国水平社初代委員長の南梅吉が住み、本部を置いた。千本北大路の展示施設「ツラッティ千本」(北区)には御土居の模型もあり、千本地域の人権の歴史を学ぶことができる。梅林さんは「御土居は今の京都を形づくったが、内外の境目には被差別身分の人たちが住まわされた地域もあった。御土居の際で日陰になった人たちの生活があったことを忘れてはいけません」と話す。
さらに南へ下がり、中京区西ノ京へ。御土居の西側にある四角い出っ張った部分は御土居の「袖」と呼ばれる。北野中にはその一部が残っていて、学校の許可を得て見せてもらった。御土居の北側の斜面はプールの観客席に利用されている。梅林さんは「時を超えて御土居が生徒に親しまれているというのがいいですね」と笑顔を見せた。
御土居にはほかにもスポットが多い。中京区西ノ京原町の御土居に残る市五郎稲荷神社は、御土居が信仰の対象になったことをしのばせる。東側では廬山寺(上京区)の境内でも御土居が残り、北野天満宮で公開中のもみじ苑では11月14日~12月6日にはライトアップされ、紅葉の中で御土居が見られるだろう。
御土居の取材では高年齢者から、子どものころに御土居の上で滑って遊んだり、七夕のササを取ったという話を聞けた。梅林さんは「御土居は最近まで住民の暮らしとともにあった。その世代は今でも親しみを込めて『御土居さん』と呼んでいる。柵に閉ざされた史跡があるが、『御土居の日』でもつくって限定的にでも開放してはどうか。いつか子どもたちが昔のように御土居で元気に遊ぶ姿が戻ってほしい」と願っている。