「日本人=調査者、台湾人=被調査者」を超えて…『民俗台湾』―「皇民化運動」に抗った雑誌
太平洋戦争の勃発が目前に迫った1941年7月、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。刊行の中心となったのは池田敏雄という人物。写真は台湾。
太平洋戦争の勃発が目前に迫った1941年7月、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。刊行の中心となったのは池田敏雄という人物。彼は公学校(台湾人向けの小学校)教諭だった頃から台北の下町・[舟孟舟甲](現在の萬華区)に住み込み、庶民文化にすっかり馴染んでいたほどの台湾びいきであった。
池田敏雄という「台湾オタク」が雑誌『民俗台湾』を牽引した情熱は、日本人/台湾人という民族の壁や、支配者/被支配者という植民地体制の壁を乗り越えようとしていた。そのことの意義は、歴史を見るにしても、民族共存という現代的問題を考えるにしても資するところがあるのではないか。
南進の前線基地と位置付けられていた台湾では戦時色が日増しに色濃くなりつつあり、陰に陽に台湾人の「日本人」化を推し進める、いわゆる「皇民化運動」が展開されていた。台湾人の民俗文化を記録することは、見方を変えれば日本人との文化的相違を際立たせることでもある。こうした時代状況下では当局から歓迎されるはずもない。ましてや、池田は公学校教諭を辞めた後は台湾総督府情報課に勤務する公務員となっており、彼が雑誌刊行の正面に立つわけにはいかなかった。
そこで、池田は台北帝国大学医学部教授の金関丈夫に相談する。金関は『民俗台湾』の創刊趣旨に賛同し、編集人となることを快諾した。金関の帝国大学教授という肩書きの権威が当局に対して抑えになるという計算である。
金関の本職は解剖学者であるが、彼は形質人類学の観点から考古学に関心を持っていたばかりでなく、歴史や文学にも広く造詣があり、文筆を得意とする博物学的な才人であった。実質的な編集実務は池田が取り仕切ったが、折に触れて金関から知恵を授けてもらうようになる。単に民俗学的な記録を並べるのではなく、肩のこらない読み物として工夫するようアドバイスしたのも金関である。金関自身がかつて関わっていた人類学・考古学の雑誌『ドルメン』(岡書院から1932年に創刊)がモデルになったという。
植民地当局が推進する近代化と日本化(皇民化)、こうした社会的圧力によって台湾古来の習俗が消え去りつつあるのを憂える人々によって『民俗台湾』が担われていた点では、例えば、朝鮮半島における柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟などのような存在にたとえられるだろうか。
■「日本人=調査者、台湾人=被調査者」の構図を超えて…『民俗台湾』の特徴
『民俗台湾』の特徴としては、差し当たって次の二点があげられるだろう。第一に、立石鉄臣の描いたイラストや、松山虔三の撮った写真によって、ヴィジュアルとして民俗資料の記録に努めたこと。文章だけでは捉えきれない視覚的な具象性は資料として貴重である。とりわけ立石のイラストにはある種の温もりが感じられて、一般読者の興味を大いにそそったことであろう。
第二に、日本人ばかりでなく、台湾人からの寄稿を積極的に募ったこと。編集運営の主力メンバーであった黄得時、楊雲萍(二人とも戦後は台湾大学教授)をはじめ、例えば作家の楊逵、張文環、呂嚇若、龍瑛宗、周金波、巫永福、呉新栄、画家・工芸家の顔水龍、歴史家の曹永和、法制史家の戴炎輝、社会学者の陳紹馨、労働運動家の連温卿、弁護士の陳逸松、医学者の杜聡明といった台湾知識人の錚々たる顔ぶれを誌面から見出すことができる。さらには市井の一般読者からの投稿も歓迎していた。
『民俗台湾』編集同人には、日本人=調査者、台湾人=被調査者という対峙的な構図に陥ってしまわないように、台湾人自らによって民俗文化の記録を促す意図があったと言えよう。台湾では、日本統治時代には「日本史」を、戦後の国民党政権時代には「中国史」を「自分たちの歴史」として押し付けられたという経緯がある。『民俗台湾』編集同人が台湾人自身の主体性を促しながら民俗資料の記録に努めたことは、近年になって「台湾人」アイデンティティーの確立に寄与したという評価につながっていく。
■『民俗台湾』は「植民地民俗学」だったのか?
「日本の植民地支配は良いこともした」と言ってふんぞり返るのは論外であるが、かつての植民地支配や対外的侵略といった負い目を持っている日本人の立場から現代史を考えようとする場合、「語り口」のナーバスな難しさに困惑することがしばしばある。
とりわけアカデミズムにおいてポストコロニアルのアプローチが盛んになると、支配者/被支配者、中央/周縁といった枠組みを前提とした学知的構造そのものがはらむ知的暴力性が問題とされ、当時においては一見「良心的」な振る舞いに見えたとしても、こうした学知的構造に彼らも取り込まれていた以上、その責任は逃れがたいという見解が主流となってきた。例えば、川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が、『民俗台湾』は柳田國男が構想した(と川村が言う)「植民地民俗学」の一環に過ぎないと断罪したのはその代表例である。
ところで、川村をはじめとした論者は『民俗台湾』の植民地性を物語るエピソードとして、『民俗台湾』創刊趣意書(金関の執筆)にあった「台湾旧慣の湮滅を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲萍が「冷たい」と非難するという一悶着があったことを取り上げる。しかしながら、「皇民化運動」という当時の時勢の中、総督府から睨まれないよう筆を曲げなければならない事情があった点を考慮する必要があろう。
実際には、間もなく楊雲萍は金関と和解したようで、『民俗台湾』に何度も寄稿している。彼は戦後になって「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」(注1)と記しているのだが、こうしたことを川村が取り上げないのは議論の構成に恣意性が疑われる。
また、黄得時は「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、絶対にそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」と語っていた(注2)。
客観性を標榜する学問的営為そのものの中に無意識のうちに紛れ込んでいる偏見を暴き出し、その自覚を促した点でポストコロニアルの議論が貢献した成果は大きい。他方で、それが一つの理論として確立され、事情を問わずに一律に適用され始めると、今度は断罪という結論が初めにありきで、当時を生きた人々の生身の葛藤が看過されかねない。そうしたスタンスの研究には欠席裁判の傲慢さ、冷たさすら感じられる。当時において成立していた学知的構造の矛盾に気づいていたとしても、少数の人間だけで動かしていくのは極めて困難であろう。そうではあっても良心的に振舞おうと思った人間の主観的な情熱は、「偏見」を崩せなかったという理由において、無自覚な構造的加害者として一律に断罪されなければならないのだろうか?
こうした問題意識をふまえて、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と三尾裕子は問いかけている。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」という指摘には私も共感できる(注3)。
■『民俗台湾』の継承と「蛍の光」
戦局も押し迫ってきた1944年7月、編集実務の一切を切り盛りしていた池田が召集されてしまった。画家の立石鉄臣がかわって編集作業を行うが、その立石までやはり召集されてしまう。最後は金関が一人で編集にあたり、1945年1月号まで何とか粘り続けた。
日本の敗戦で台湾は中華民国へと返還される。こうした体制転換にあたって、『民俗台湾』の人的ネットワークはこれまで蓄積してきた台湾研究の成果を引き継ぐ上で大きな役割を果たした。金関丈夫は新制台湾大学医学院教授、國分直一は同文学院副教授となり、池田敏雄は台湾省編訳館台湾研究組に所属するといった形で『民俗台湾』編集同人たちも留用され、引き続き台北で暮らすことになった(「留用」とは特別な技術を持った人々が国民党の要請によってしばらく現地に留まったことを指す)。
気心の知れた楊雲萍が台湾研究組の責任者となり、編訳館の館長には日本留学経験のある知日派で魯迅の親友だったリベラリスト、許寿裳が就任。台湾人、留用された日本人、来台した中国の知識人、こうした人々が民族的垣根を越えて交流するシーンが戦後間もなく、ほんのひと時とはいえ出現したというのが実に興味深い。
1947年2月、いわゆる二二八事件が起こった。ちょうど台湾南部の曽文渓への調査で出張していた金関と國分は命からがらたどり着いた台北駅で装甲車から銃撃を受けるなど、騒乱をじかに目撃したらしい。留用日本人が台湾人を煽動したのではないかと当局は疑っていたとも言われ、日本人の帰国が早まった。台湾省編訳館は閉鎖され(翌年には許寿裳が暗殺される)、日本への引揚船が順次出航、『民俗台湾』編集同人も船上の人となった。1948年12月に引揚船に乗った立石鉄臣は、基隆の港から船が離れるとき、波止場に集まっていた台湾の人々が一斉に日本語で「蛍の光」を歌いだし、近寄ってきたランチは日章旗を振って見送ったことを回想している。
(注1)『えとのす』第21号、1983年7月。
(注2)『台湾近現代史研究』第4号(1982年10月)所収の池田敏雄の回想から。
(注3)三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」(貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号[2006年3月])を参照。
両手のないお爺さんに弁当を食べさせてあげた台鉄乗務員さん、ネットで話題に
台湾鉄道の女性乗務員が列車内で年配男性の口に食べ物を運び、弁当を食べさせている写真がインターネット上に転載され、台鉄の「天使」、「女神」と人々の絶賛を浴びている。台湾の複数メディアが伝えた。
台湾鉄路管理局で調べたところ、話題の乗務員は北部・七堵車勤部所属で勤続17年になる鄭淑君さんだと判明。
鄭さんは先月12日、急行「キョ(=草かんむりに呂)光号」に乗務。高雄から台北に戻る車内で台中駅から両腕の肘から下がない70歳余りの男性が売り物の玉蘭花が入ったかごを肩にかけて乗車してきた。鄭さんはこの年配男性がよく乗車するのを見ており、乗り降りを手助けしたこともあった。
この日8両目に座っていたこの男性は、鄭さんが車内販売のワゴンを押しながら通ったところ弁当を買いたいと言った。また、スプーンはないかと聞かれ、鄭さんがありませんと答えると、男性はすごくお腹がすいているので弁当の中身を口に運んでもらえないだろうかと尋ねた。鄭さんは一旦は断ろうとしたものの手の使えない男性が空腹を訴え続ける上、弁当もほとんど売り終わったことだし、と求めに応じた。
男性は最初の何口かはほとんどそのまま呑み込む勢いで、本当に空腹なのだなと思い、鄭さんは慌てなくてよいのでもっとゆっくり食べるようにと促した。男性は自分の身の上については多くを語らなかったが、自分の妻はもうこの世にいないとだけ告げた。
鄭さんは男性に自分の腰に結びつけてある財布から弁当代を取ってほしいと頼まれた。ためらっていた鄭さんだが、ちょうどそこを列車長が通りかかり、指示をあおいだ上で男性の財布から60元(約200円)を取り出したという。
インターネット上では鄭さんの心の美しさにとても感動したとの声が多く寄せられた。鄭さんは自分が男性の口に食べ物を運んでいる姿が撮影され、それがネット上に転載されていることに驚きながらも、「ちょっとお手伝いをしただけで大したことではありませんよ」と謙遜していた。
台湾抗日英雄の子孫、「なぜ台湾人はこれほどまで日本を慕うのか」
中国メディア・台海網は14日、台湾の教育部が高校の国語、社会科のカリキュラムを「脱台湾化」路線へと微調整したことについて民進党支持派「緑営」が疑問を投げかけたと報じた。これに対し、台湾の統一派団体が13日に実施した懇談会では、「緑営」の真の目的は「脱中国化」であるとの認識が示されたほか、台湾籍の抗日英雄・羅福星の孫にあたる羅秋昭氏が「1人1人が民族の長期的存在を積極的に守るべきだ」と語ったと伝えた。
羅氏は、「民族の生存のために犠牲を払う志士がいなければ民族は消えてなくなる」とし、大陸が現在発揚させている民族精神と台湾の精神は同じものであり、「台湾の歴史編さん者が正しく、客観的な態度で歴史を記さないのは、悲劇だ」と語った。
また、「日本に侵略された経験を持つ韓国は日本人を非常に恨んでいるのに、なぜ台湾人はこれほどまでに日本に憧れと期待を抱くのか」と問題提起した。そして、民進党政権期が「台湾を認識し、中国に立脚し、世界に目を向ける」という教育目標を掲げた一方で、「台湾を認識」するうえで台湾の歴史をわい曲し、台湾のために貢献した人を取り上げなかったのは「実に奇怪だ」とした。
羅氏は、「国民」を育てる学校教育のカリキュラムが憲法に反するものであってはならないという立場を踏まえたうえで、カリキュラムの調整をより正確に行わなければならないと強調した。
日本人留学生、9年で6割増 主な目的は中国語学習/台湾
中国語を学ぶため、日本から台湾を訪れる留学生の数が増加の傾向にあることがわかった。また、昨年末時点の中国語能力試験(華語文能力測験=TOCFL)受験者数も累計で延べ15万人を突破するなど、台湾の優れた中国語学習環境を裏付けることになった。
教育部が文部科学省の統計などを引用して発表したところによると、日本人の海外留学者数は10年前の8万2945人をピークに減少を続け、2010年は約3割減の5万8060人となった。一方、昨年の台湾への日本人留学者数は3097人に達し、2004年と比べて約65%増加しており、うち半分以上は華語学習が目的だった。
中には大学生や定年退職者などもいて、留学の感想については、「台湾の大学生との交流やホストファミリーの温かいもてなしを満喫し、人生の中で最も素敵な体験ができた」、「人々はとても親しみやすく喜んで人助けをするところが印象的。学校生活も楽しい」と満足気な様子だった。
教育部では2006年から外国人向けの短期研修団計画を推進し、語学の学習を目的とする留学生の台湾誘致に積極的に取り組んできた。昨年は日本、韓国、アメリカ、カナダ、フランス、ロシア、欧州連合(EU)、ドイツ、オーストリア、ポーランド、オーストラリアから463人が中国語を勉強するために来台、その人数は毎年安定した成長が続いている。
県助成金で歴史的建造物の保護に力を入れる金門島
台湾側の離島で中国大陸福建省厦門(アモイ)にほど近く、147もの歴史的建造物を有する金門県では、同県政府文化局による助成金を受け、現在、私有の歴史建築9カ所の修繕が終了しており、他の2か所も今年8月までに完了する見通しとなっている。
県文化局では一般伝統建築の修復補助金を台湾元で最高200万元(約670万円)とし、歴史建築の修復については250万元、400万元、500万元の3等級に分けて助成を行っている。近年は年間修復予算として2500万元(約8400万円)が組まれており、修繕を希望する所有者や管理者は規定に従って助成金を申請することが可能で、県側では先祖代々伝わる古い家屋の保存に役立ててほしいとしている。
歴史的建造物は台湾全体で1000件余りあるが、このうち147件が金門県に集中しており、金門地域の文化が豊かで多様な建築様式を産み出しているといわれる。現在、修復は主として個別に行われ、各地に分散しているためその効果は今ひとつだというが、同県では地元住民による自発的な修繕や活用が進めば、美しい環境を追求する気運も高まるのではと期待している。
金門地域には特色あるビン南(福建南部)式建築のまとまった集落がある。この中には南洋(東南アジア)に進出し成功した祖先が帰郷して建てた洋楼(西洋式の建物)も含まれるが、年代も古く老朽化が進んでいる。「ビン南文化と集落」は県観光の目玉でもあり、金門国家公園管理処では住民と共に伝統的な建築の修繕に取り組みたいとしている。(ビン=門がまえに虫)
台湾でバレンタインデーに2742組が結婚届を提出
きのう2月14日の“情人節”バレンタインデーには結婚をより思い出深いものにしようと朝早くから多くのカップルが結婚届を出しに各地の区役所を訪れ、今年元日の1523組を超える2742組が手続きを行った。台湾ではキリのいい数字や縁起のいい言葉に掛けた日を選んで結婚する人が多い。
台湾内政部の調べによると、過去5年間で1日あたりの結婚届の提出が最も多かったのは2011年1月1日の7050組。「1111」と1が並ぶほか、この年は台湾では民国100年にあたり、祝福の言葉、“百年好合”(末永く仲よく)に掛けている。
また、「9999」“久久,久久”(いつまでもずっと一緒に)に掛けた前の年の民国99年9月9日には6774組、民国100年10月10日には5634組の新婚カップルが誕生。数字の発音が“愛[イ尓]一生,我愛[イ尓]”(君を一生愛する、愛してる)に似ているとされた2013年5月20日には5030組が届けを出している。
<台湾の年号「民国」> 台湾では年号に国号の「中華民国」(1912年1月1日開国)がそのまま使われている。西暦から辛亥革命の年、1911を引くと民国の年数になる。今年は民国103年。
中国と台湾が関係修復、「日本はじき」が狙い=尖閣領有権で共闘―露メディア
11日、ロシア国営RIAノーボスチ通信は「中国と台湾が関係修復、ともに日本に対応へ」と題する記事を掲載した。
2014年2月14日、参考消息(電子版)によると、ロシア国営RIAノーボスチ通信は11日、「中国と台湾が関係修復、ともに日本に対応へ」と題する記事を掲載した。以下はその概要。
中国と台湾はこのほど、1949年の分断後初となる当局者の公式会談を江蘇省南京市で開催した。重要課題での合意は達成されなかったが、会談の実施自体が中台関係が新たな段階に入ったことを示した。今回は閣僚級の会談であり、開催場所は「国民党政府」の首都・南京だった。
南京での会談はアジアのマクロ政治に関係する。アジアの経済発展に伴い、米国は中東に代わって極東重視を打ち出した。尖閣諸島(中国名・釣魚島)の領有権問題をめぐり、日中対立は激化する一方だ。歴史は複雑だが、台湾が中国を支持していることが分かるだろう。台湾は「(尖閣は)中国の領土だ」と言う。もしこれが1980年だったら、台湾は日本に反旗を翻し、中国を支持できただろうか。無理だ。時間の針は元に戻せないのだ。
米国の同盟関係で最も重要な国である日本を、中国は「つまみ出そう」としている。中国メディアの報道はそれ一点張りだ。「日本の首相は戦犯が祀られている靖国神社を参拝した。米国さんよ、これをどう思う」というわけだ。中国人と韓国人は「反日」で共通している。中台が関係を修復し、ともに日本に対応する。公にはされていないが、そういうことだろう。
米ITC、中台の太陽光発電向け製品が国内産業侵害の恐れと仮決定
米国際貿易委員会(ITC)は14日、中国と台湾から輸入される太陽光発電向け製品が国内産業を侵害する恐れがあるとの仮決定を下した。商務省による不当廉売(ダンピング)課税などの適用につながる可能性がある。
ITCの仮決定を受け、商務省は問題となっている製品が米国内でダンピングされていないか、また不適切な水準の補助金を受けていないか調査を継続。中国政府による不適切な助成の有無に関する仮決定を3月28日に、不当廉売の有無に関する仮決定を6月11日に下す。
商務省の統計によると、太陽光発電向け製品の中国からの輸入は2012年は20億ドル強。台湾からの輸入は5億1000万ドルだった。
ITCの統計によると、中国からの輸入は2013年は前年の約3分の1減少。台湾からの輸入は40%以上増加した。
中台関係、新段階に=「対話圧力」強める中国−台湾の民意は「現状維持」
中台分断後初となる担当閣僚会談が11日南京で開かれ、中台関係は新たなステージに入った。中国は将来の平和統一を視野に入れ、今後、馬英九政権に対する政治対話圧力を強めるとみられる。馬総統は「経済を先に、政治は後で」と政治問題を先送りしてきたが、今後は難しい対応を迫られそうだ。
◇高まる対中依存
2008年の馬政権の発足以降、中台の経済的な結び付きは強まり、10年には事実上の自由貿易協定(FTA)である「経済協力枠組み協定(ECFA)」が締結された。台湾の輸出総額に占める中国(香港を含む)向けの比率は約3割、中国大陸での現地生産も急速に拡大している。
約115万人の台湾人ビジネスマンが中国大陸に住み、年間の往来人口は800万人に上る。中国依存度は今後さらに高まるとみられ、「中台関係はもはや後戻りできない状態」(地元ジャーナリスト)だ。
中国の存在感が増す中、最大野党・民進党内でも台湾独立を掲げる党綱領の見直し案が浮上し、現実的な対中政策の検討を始めている。
◇いら立つ中国
中国の習近平国家主席は昨年10月、アジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれたインドネシア・バリ島で蕭万長前副総統と会談し、政治問題の解決を「世代から世代へと先送りすべきではない」と強調した。
経済利益を享受するだけで政治対話を引き延ばし続ける台湾の姿勢に「中国はいら立ちを強めている」(台湾専門家)とされ、当局間の交渉を通じて和平協定締結などに向けた政治対話を本腰を入れて要求してくるとみられる。
ある外交筋は「08年以降、中国はECFAをはじめ経済面で台湾に十分な『善意』を示してきた。先方はこれからは台湾が『善意』を示す番だと考えている」と解説してみせた。
◇悩ましいかじ取り−台湾
民放テレビ局のTVBSが昨年10月に実施した中台関係に関する世論調査によると、台湾では「現状維持」を望む人が64%と最も多く、「独立」は24%、「統一」はわずか7%だった。台湾の民意は「現状維持」が主流となっている。外省人(中国出身者)の両親を持つ60代男性は「戦争を経験した高齢者は別にして、今さら中国と統一して大陸に戻りたいと考える人はいない」と力説する。
馬総統が中国に歩み寄り、統一につながる政治対話に踏み込めば、住民から激しい反発を招くのは必至だ。もっとも、台湾では14年11月に統一地方選、16年に総統選という大型選挙が控えており、馬総統も「危険な賭け」に打って出る可能性は低いとみられる。
しかし一方で、中国の要求を拒み続けることも難しく、馬総統は内外情勢と折り合いを付けながら対中政策を模索せざるを得ない。国民党関係者は「退任までの2年間、馬総統は中国との関係で頭を悩ますことになるだろう」と感想を漏らした。
中台、焦点は首脳会談 閣僚級協議を定期化へ
中国と台湾は1949年の分断後、初めて行った主管官庁トップ(閣僚級)間の一連の協議で、「首脳会談の開催」という重大な議題まで俎上(そじょう)に載せて歴史的な段階に踏み込んだ。いまも互いに主権を認めていない中台だが、閣僚級協議が定期化されることになり、今後の焦点は習近平国家主席と馬英九総統の会談がいつ、どこで、どのような形式で行われるかに移る。両岸(中台)統一に向けて「政治対話」を迫る中国と、現状維持を求める住民が大多数の台湾とのギリギリの攻防が始まる。
首脳会談については13日夜、上海市内で中国国務院(政府)台湾事務弁公室の張志軍主任と、台湾で対中政策を主管する大陸委員会の王郁●主任委員(いずれも閣僚級)が小人数で会食した際に話し合われた。上海市内を流れる黄浦江沿いで租界時代から続くホテル「和平飯店」。ロビーで待ち受けた記者団に張、王両氏が明らかにした。
王氏同行筋によると、張氏が首脳会談の話題を持ち出し、これに王氏が今年秋に北京で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の場が望ましい、との立場を伝えた。
台湾はAPECの正式メンバーだが、過去の会合では中国の妨害で首脳はおろか、政府高官を派遣することも難しく、2001年の上海APECでは参加を断念した経緯がある。国際会議であるAPECの場での首脳会談が実現すれば、台湾としては中国との対等な立場をアピールできる。
だが、中国側は「台湾との関係は国内問題で国際会議の場を利用する必要はない」(関係筋)と難色を示す。馬英九氏を「総統」と認めない中国は、首脳会談を行うにしても「肩書」も重大なハードルになる。
張氏は4月にも初訪台して、主管官庁トップ会談を定期化させる。相互信頼醸成に向けた対話メカニズムを構築しながら、双方がギリギリの妥協点を見いだして首脳会談の場を設定できるかどうかがカギとなる。中国は“経済カード”や軍事力をちらつかせつつ、力ずくで政治対話のテーブルにつくよう要求する事態も考えられる。
一方、尖閣諸島(沖縄県石垣市)の領有権を主張して威圧的な海洋進出を続ける中国が、将来的な台湾統一で道筋をつければ、地政学上、日米の安全保障に影響が出かねない。台湾海峡のシーレーン確保も日本の生命線で、中台交渉の行方は日米や周辺国にとり重大な関心事となりそうだ。
中台首脳会談 台湾側の代表「目標は達成」
台湾で対中政策を主管する大陸委員会のトップとして初訪中した王郁●主任委員は14日、4日間の日程を終えて帰台し、台北市内で記者会見を開き、「(台湾側の)設定目標は達成した」と成果を強調した。
しかし、13日の会談で話し合われた中台首脳会談に関し、王氏は今年秋に北京で開催予定の「APECの席が望ましい」と主張したのに対し、中国側から「ふさわしくない」とする反応が示されたと説明。王氏は「今後さらに調整が必要だ」との見方を示した。
一方、台湾の与党、中国国民党名誉主席の連戦元副総統が17〜19日の日程で中国を訪れ、北京で習近平共産党総書記(国家主席)と会談すると、連氏の事務所が14日発表した。総書記就任後の習氏と連氏の会談は昨年2月以来2回目。
連氏の事務所によると中国側の招待に応じた訪中という。
李登輝元総統、皮膚がんで手術
李登輝元総統(91)は15日、唇周辺のがん細胞をすでに切除したことを明らかにした。
李元総統はこの日午後、新刊書「永久和平中立、台湾走向東方瑞士之路」(恒久平和と中立、台湾が東洋のスイスへと向かう道)の発表会に出席したが、唇の傷跡について聞かれた際、「皮膚のがん細胞」だと答えた。
家族から唇の上に痣のようには見えないものがあると言われた李元総統が検査を受けたところ、がん細胞と判明したため、2週間前の手術できれいに切除したという。
アジア太平洋経済協力会議(APEC)の場での馬英九総統と習近平氏の会談は適切かとの質問については、中国大陸側が一方的に決定できるものでなく、APEC参加メンバーの意見を聞くべきだとの見方を示した。
台湾・宜蘭で排水溝が新しい桜の名所に
台湾北東部の宜蘭県・羅東鎮で草が生い茂ってばかりだった水路が桜の植樹が行われ、2.2キロメートルに及ぶ遊歩道や自転車道も敷設されて新しいお花見スポットとなっている。
この地域では4年前、水害対策用の水路の両岸に墨染桜と八重桜を1000株近く植え、その後、地元ボランティア30名余りが樹の手入れを続けたことで、とうとう春になると桜が満開となる花見の名所になった。
羅東では昨年9月に敷設した遊歩道・自転車道に加えて、街灯や石造りのベンチを増設し、今年1月に工事が完了したばかり。今はちょうど桜の季節で、サイクリングをしながらのお花見を楽しんでほしいと市民に呼びかけている。
APECでの両岸首脳会談、中国大陸側「ふさわしくない」
台湾側が今年北京で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の場で馬英九総統と中国大陸側国家主席、習近平氏の会談(馬習会)開催を望んでいることについて、中国大陸側が「ふさわしくない」との考えを示したことがわかった。
台湾の対中国大陸政策を担当する行政院大陸委員会のトップとして現地を初めて訪問した王郁キ主任委員(閣僚)は14日、4日間の日程を終えて帰台し、台北市内で記者会見を開いた。席上、大陸側国務院台湾事務弁公室の張志軍主任(閣僚)との13日の会談について、張氏が自ら馬・習会談について提起、「APECはふさわしい場所ではない」との大陸側の見方を伝えたが、その他の代替案は示されていないと述べた。(キ=王へんに奇)
また、張氏の前で馬総統について触れる際、自身が「馬総統」と呼称していたのに対し、張氏は「あなた方の指導者」、「馬先生」(=馬さん)との呼び方をしていたことも明らかにした。
元ソフトBの陽耀勲、米パイレーツと契約 夢の舞台へ
元ソフトバンクの陽耀勲投手(31)が米大リーグのピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、夢だったメジャー挑戦に一歩を踏み出した。複数の台湾メディアが15日に伝えた。
王貞治氏からも高い評価を受けていた台湾出身の左腕は2006年にソフトバンクに入団。2012年にプロ初完封を達成するなど防御率1点台の好成績を残したが、昨年は右太ももの故障もあって1軍未登板に終わり、10月に退団が発表された。
アメリカでは、マイナーリーグでレベルの最も高い「3A」からのスタートとなる見込みで、メジャーに昇格した場合、ボルチモア・オリオールズの陳偉殷(元中日)に次いで日本でプレー経験を持つ2人目の台湾人大リーガーになる。
韓国ドラマ「星から来たあなた」が人気沸騰、「リメーク版ヒロイン」人気1位はソニア・スイ―台湾
台湾で韓国ドラマ「星から来たあなた」が人気を集める中、リメーク版で「ヒロインを演じてほしい女優」にソニア・スイが選ばれた。2014年2月14日、台湾で韓国ドラマ「星から来たあなた」が人気を集める中、リメイク版で「ヒロインを演じてほしい女優」にモデル出身女優ソニア・スイ(隋棠)が選ばれた。Yes娯楽が伝えた。
映画「猟奇的な彼女」などで知られる人気女優チョン・ジヒョンが主演のドラマ「星から来たあなた」。放送中の韓国で高視聴率を獲得しており、中国・香港・台湾にも人気が飛び火している。400年前に地球へやってきたという宇宙人男性と、チョン・ジヒョンが演じるスター女優との恋愛を描くストーリーだ。
台湾で大人気の同ドラマだが、台湾ドラマとしてリメークされた場合、「ヒロインを演じてほしい女優」についてインターネット上で早くもアンケート調査が行われた。1位に選ばれたのは、ドラマ「結婚って、幸せですか?」などで知られるソニア・スイ。モデル出身の抜群のスタイルだけでなく、上品な美貌やエレガントな雰囲気が、チョン・ジヒョンにも負けないとして選ばれた。
ヒロインに選ばれたソニア・スイだが、「星から来たあなた」は「見ていない」とのこと。とは言え、最近は周囲の女性たちの話題はこのドラマばかりなので、「ストーリーだけは知っている」と話している。チョン・ジヒョンについては「アクションもシリアスな演技もできて、憧れの女優さんの1人。今後の目標にしたい」と語っていた。