高雄自由貿易港区、環境アセスで計画に遅れか
環境保護署は19日、高雄自由貿易港区第2期計画に対し、第2段階環境影響評価の対象とすると決めた。環境アセスが行われると計画が2年以上遅れる恐れがある。計画対象となる場所には物流施設や倉庫など、環境に与える影響が低い業種が進出する予定だが、4割近い計画地が焼却灰埋立地であったことから評価委員会は環境汚染の懸念があると説明している。
桃園空港、南滑走路で改良工事開始
桃園国際空港では来年1月15日まで、大規模な改良工事のため、南滑走路が閉鎖されることになった。2本の滑走路が使用開始からいずれも30年を経過し、老朽化が進んでいることから行われるもの。工事は全面的な修繕以外に延伸と拡幅も行われる。工事終了後は超大型旅客機エアバスA380の乗り入れが可能になる。
台湾新幹線、「家族割り」導入を検討
新幹線の台湾高速鉄路(高鉄)は、運賃引き上げで減った乗客数の回復に向けて家族割引の導入を検討している。高鉄は昨年10月に営業開始から初の値上げに踏み切った。値上げ前の乗客数の伸びは毎月前年同月比8〜10%増だったのが、2%増前後まで鈍化しており、てこ入れが必要と判断した。
春秋航空、花蓮〜上海便の就航に意欲
中国LCCの春秋航空の台湾支社総経理・王束雨氏は19日、花蓮県長を訪問し、花蓮〜上海便就航の意思を伝えた。王氏は「タロコ渓谷や七星潭などの有名観光地をめぐる5〜7日間のツアーを作りたい」と述べた。春秋航空は低コストや現地高級ホテルとの提携を通じ、消費潜在力の高い自由旅行者を顧客ターゲットとしている
タッチパネル宸鴻が1万人整理、幹部は減給
タッチパネル大手の宸鴻(TPK)はノートPC向け製品の需要拡大をにらみ、生産能力を大幅に拡張した。しかし実質需要が予測を大幅に下回って1万人規模の人員整理と幹部社員の減給を余儀なくされた。営業外投資も不調で2013年第4四半期は大幅な損失を計上している。頼みの綱は主要顧客である米アップル。業績が好転するのは新製品を発売する下半期になりそうだ。
旧暦1月20日は客家の日
昨日19日は旧暦の正月20日。「天穿日」と称し、「全国客家の日」となり、各地で客家文化の慶祝活動が行われた。新北市の客家文化園区では100鉢の椿の盆栽が展示されている。椿の花弁は1枚ずつ落ちるのではなく、丸ごといっぺんに落ちる。これは客家の「強情な」精神を象徴しているという。園区では同時に茶の品評会や撮影も行われた。客家の多い桃園県平鎮市では客家の湯圓が提供され、客家音楽が奏でられた。
大正時代の日本人教師の子孫、ルーツ探しの旅へ
90年ほど前、日本統治時代の台湾で教壇に立っていた教師の大井全平さんの子孫らが18日、国立台南大学(旧・台南師範学校)を訪れ、教育の大切さを意味する「有教無類」と書いた扁額を寄贈、祖先が台南で教師生活を送っていたことに思いを馳せた。一行は大井先生が昔、授業で学生らと交流を深めた校舎を見学し、学生食堂で食事をとった後も名残りを惜しんで学校を離れがたい様子だったという。
「神の豚」奉納に動物愛護団体が疑義
台湾の一部の廟で、生きた豚を殺して神に奉納する伝統行事が残っていることについて、動物愛護団体が野蛮で残虐な行為だとして中止を求めている。台湾動物社会研究会は18日、「民俗宗教に動物虐待の特権はあるか」と題した記者会見を行い、今月5日に清水祖師廟(新北市三峡区)で行われた奉納豚の重さを競う祭り“賽神豬”の様子を記録した映像を振り返り、問題性を指摘した。
桃園空港MRT、来年前半に試運転開始
桃園国際空港と台北駅を結ぶ空港MRTの試運転が来年前半に行われることになった。交通部高速鉄路工程局が明らかにした。乗車券の価格は今年後半に公表する予定。同局は、直行は片道160台湾元、各駅停車は80元を検討している。空港MRTは全長51・3キロで空港〜台北駅を最速35分で結ぶ。交通部は当初、段階的に部分開通させる計画だったが、全線を一度に開通する方針に改めた。
総統府前の大通り、深夜は封鎖へ
総統府は18日、総統府前のケタガラン大道の懐寧路から重慶南路までの120メートル及び総統府周回部分で、午後10時から翌日午前6時まで車両の通行を禁止すると発表した。正式な日程は国家安全局と台北市が合意した後、発表される。台北市は封鎖に乗り気ではないようだ。総統府前の交通量は、夜間は少ない。
両岸気象地震協定では国家安全審査の仕組み採用
台湾海峡両岸の気象と地震に関する協定に向けて、台湾では初めて「両岸協定国家安全審査メカニズム」を採用する。今月末に台北で開かれる予定の、両岸双方の窓口機関による10度目のトップ会談では、「両岸気象協力協定」と、「両岸地震観測協力協定」への調印が予定されている。
中華民国政府で対中国大陸政策を担当する行政院大陸委員会の王郁?・主任委員は19日、協定締結後、両岸は連絡メカニズムと常設の資料交換ルートを通じ、データの新しさと正確性を高めることで、両岸の人々の自然災害に対する備えを充実させ、人々の生命と財産の安全を強化すると述べた。
王・主任委員によると、これら二つの協定締結に向けては初めて、「国家安全審査メカニズム」が採用される。王・主任委員は、同メカニズムの採用は国家の安全保障、デリケートなハイテク技術や優れた人材の育成問題などに関係なく、台湾に深刻な悪影響をもたらす恐れもないと説明、「すでに大陸委員会から協定案は行政院に送られており、行政院の各部会が合同で審査する。そこで承認されたなら国家安全会議に送り、学者や専門家を集めて第二段階の審査を行う」と述べた。
また、中国大陸側に提供する資料は、交通部中央気象局の業務範囲のものと、ウェブサイト上で公開されるものに限られるという。協定締結後は、双方がホットラインを設けることで迅速な意見交換が可能になるという。
陸委会:「一つの中国」はあくまで中華民国のこと
与党・国民党の連戦・名誉主席と中国大陸の指導者、習近平氏の会談に対し、中華民国政府で対中国大陸政策を担当する行政院大陸委員会が、「一つの中国」はあくまで中華民国だと強調した。元副総統でもある連戦氏は18日夜、中国大陸の北京で習近平氏と会談。習近平氏は席上、「一つの中国」の枠組みの下、台湾と対等な対話を望む立場を示した。
行政院大陸委員会の呉美紅・スポークスマンは19日、中華民国憲法と両岸人民関係条例によれば、両岸の位置づけは、「ひとつの中華民国、二つの地区」だと指摘、両岸関係の発展では、「92年コンセンサス、一つの中国、各自解釈」を堅持し、その場合の「一つの中国」は中華民国を指すと改めて強調した。
中共の習近平氏は会談の中で、馬英九・総統との対面問題に触れ、連戦氏の考えをたずねた。連戦氏は、両岸の指導者同士の対面に楽観的な立場を示し、世界の例を挙げて、国際間の問題を指導者同士が会って解決するには事前の準備工作が必要だと話した。習近平氏はこの回答を評価、賛成したという。
呉・スポークスマンはこれについて、大陸委員会の立場は、両岸の指導者が対面する場合、適切な環境と身分、台湾の人々の幸福と両岸関係の発展に有利であることが必要だというものだと述べ、依然として今年11月に中国大陸の北京で開かれるAPECアジア太平洋経済協力首脳会議の場がよいと考えていることを明らかにした。
一方、総統府の李佳霏・スポークスマンは19日、馬英九・総統は今回の連戦氏と習近平氏の会談を歓迎していると述べたが、両岸の指導者の対面が話題に上ったことについてはコメントを控えた。
連戦・元副総統:両岸政治対話は避けて通れず
与党・国民党の連戦・名誉主席が、台湾海峡両岸の政治対話は避けられないとしている。かつて副総統を務めた連戦・国民特名誉主席は18日、中国大陸の北京で、中国大陸の指導者、習近平氏と会談した。席上、連戦氏は習近平氏に対し、両岸が政治的に立場が異なることは事実だとした上で、両岸の政治対話については、「やはり避けられないと感じる」と述べた。連戦氏はさらに、機が熟すまで待つことも必要だが、一部の事柄は積極的に取り組んで政治的な難題解決を目指すことも必要だと述べ、従来よりも政治対話に前向きな姿勢を打ち出した。
連戦氏は、立場の異なる点は棚上げし、合意できるところを進展させるという前提の下、両岸は「一つの中国」の枠組みと意味合いについて、相互信頼関係をいっそう積み重ね、段階的に両岸の政治的な立場の違いを縮めていくべきだと主張。そして、「一つの中国」の枠組みについてより深く、進んだ共通認識を持つべきだとして、実務的な態度で現実に向き合う必要性を訴えた。
国民党、両岸協定には「四段階審議」を提案
立法院の新会期を控え、与党・国民党が台湾海峡両岸間の協定を四段階で審議する提案している。立法院の新会期は21日に開会。政府は、昨年、台湾海峡両岸が結んだサービス貿易協定の審議を重点と位置づけているが、最大野党・民進党の議員団、立法院党団の柯建銘・総召集人は先ごろ、両岸サービス貿易協定の立法院通過を阻止する考えを示すと共に、実質的な審議に入る前に、立法院での両岸監督チーム設置と、「台湾と中国大陸が結ぶ協定の処理条例」制定を求める考えを明らかにした。
国民党の立法院党団は19日、記者会見を開き、民進党の求める「台湾と中国大陸が結ぶ協定の処理条例」は憲政体制に反するものだと批判した。一方で、国民党中央政策会の林鴻池・執行長は、立法院の政府に対する監督機能を強化するため、国民党は、両岸業務のプロセスに対する監督強化を提案すると明らかにした。林・執行長は、両岸は今後もさまざまな協定を結んでいくとして、立法院が承認しないことで、締結済みの協定が発効しない事態をこれ以上起こしてはいけないと強調した。
林・執行長は、「両岸サービス貿易協定はこれまで遅れてきた。締結から1年経っておらず、影響は限定的と思うかもしれないが、実は影響が大変大きい。サービス貿易協定が通らなければ、今後の両岸商品貿易協定締結に影響するだろう」と話した。
国民党では、両岸間の協定を監督するにあたり、議題の形成段階では政府の立法院に対する内容説明、業務の意思疎通段階では、政府による進度と段階的な成果についての報告、協定締結前には協定の重要な内容、及びそれによって生まれる効果と後続の推進方式の説明、そして、協定締結後は協定の推進状況に関する専門的な報告という四段階で監督作業を進めたいとしている。
故宮博物院、日本展で日本のメディアが大注目
今年、国立故宮博物院が初めて、日本で本格的な展覧会を行うことに日本のメディアが強い関心を寄せている。故宮博物院は今年6月から、日本の東京国立博物館と九州国立博物館で、神品至宝展を開く。故宮博物院のアジアにおける海外展示会は初めてで、特に人気の高い翠玉白菜と肉形石も期間限定で貸し出される。
故宮博物院によると、日本の大手メディアは旧正月前から取材クルーを相次いで訪台させて関連の取材を行っており、故宮博物院側では対応に追われている。故宮博物院の馮明珠・院長によると、NHK、産経新聞、読売新聞などが故宮博物院への取材を行っており、4月から5月には相次いで報道がなされるという。
日本に貸し出す収蔵品231組については、現在文化部の専門家が確認作業を進めており、それが終われば対外的にリストを公表できる。確認作業は3月初めに終了する予定。また、台湾と日本の報道機関は近日中に、日本の東日本大震災で深刻な被害を受けた宮城県仙台市で、故宮博物院の収蔵品を写真で紹介するイベントを開くことにしているという。
駐豪代表:TPP参加は台湾自身の準備こそカギ
台湾のTPP環太平洋パートナーシップ協定参加に向けて、外交官らが検討を重ねている。外交部はこのほど、TPP参加に向けて内部での意思統一、政策への理解を強めるため、各国に駐在する大使や駐在代表を帰国させて研修を行っている。
オーストラリアに駐在する張小月・代表は19日、この研修活動の中で、オーストラリアがTPPとRCEP東アジア地域包括的経済連携への参加交渉を同時に進めていることに触れ、オーストラリアは高度に自由化された経済体だと指摘した。
張・駐オーストラリア代表はそして、中華民国台湾はオーストラリアと共にAPECアジア太平洋経済協力会議のメンバーで、オーストラリアは台湾の地域経済統合参加に反対しないだろうとの見方を示す一方、問題は台湾自身の準備作業であり、それこそオーストラリアの支持が得られるかどうかのカギだと強調した。
張・代表は、オーストラリアが台湾を支持するにはTPPのすべての基準を求めてくるだろうとし、それは全面的な自由化、国際化であり、いかなる保留条項も許されない、きびしい覚悟が必要だとの認識を示した。
日本クラフトビール、台湾でエール発売[食品]
日本クラフトビール(東京都港区)は、3月から台湾でエールビールを販売する。小規模な醸造所で作られたクラフトビールの品質を訴求し、域内の日本料理店やホテルのバーなどに売り込みを図る。
販売するのは、同社の旗艦商品であるエール「馨和 KAGUA」。クラフトビールの輸入と流通を手がける地場企業と組む。同社は、すでに香港やシンガポール、タイでエールビールを販売しており、台湾はアジアで4カ国・地域目となる。日本クラフトビールの山田司朗・最高経営責任者(CEO)はNNAに対し「台湾はアジアの中でも先進的な食文化を持ち、魅力的なマーケットだ」と述べた。ハイエンド顧客が足を運ぶ日本料理店や高級レストラン、バーなどをターゲットにする考え。日本から担当者が台湾に出向き、流通業者と飲食店を回り商品の魅力をアピールする予定だ。
日本クラフトビールは2011年に設立。現在は東京都内をはじめ国内約400の飲食店にビールを卸している。山田CEOは「台湾でも和のエールを楽しんでもらうために、地道な営業活動を続けていきたい」と話している。
福山雅治 “歌手”として台湾初訪問へ 新アルバムプロモーションで
台湾で絶大な人気を誇る福山雅治が今月23日、歌手として初訪台することがわかった。滞在中は6月7日に台北アリーナで行われるライブと5年ぶりの発売となったニューアルバムのプロモーション活動を行うほか、今後の台湾における重大プロジェクトを発表する予定だという。
昨年の大晦日、台北市で行われた年越しイベントに横浜のライブ会場から衛星回線を通じて出演し、多くの観衆らを魅了した福山雅治。2011年にも台湾でライブが予定されていたが、東日本大震災の影響で中止となり、昨年7月に映画「真夏の方程式」のPRのため俳優として訪台した時には、ミュージシャンとして再訪したいと語っていた。
大正時代の台湾で教鞭とった日本人の先生の子孫ら、ルーツ探しの旅へ
90年ほど前、日本統治時代の台湾で教壇に立っていた日本人教師の大井全平さんの子孫ら一行が18日、国立台南大学(旧・台南師範学校)を訪れ、教育の大切さを意味する「有教無類」と書いた扁額を寄贈、自分の祖先がこの地で教師生活を送っていたことに思いを馳せた。
黄秀霜・台南大学校長によると、今回来訪した13人は美しいキャンパスと地元の人々の厚い人情に好印象を持ったようで、大学構内で最も歴史の古い紅楼や、今でもしっかり根を張る、当時の皇太子(のちの昭和天皇)が台湾行啓の際に植樹した黒松には、大井さんの台湾での教師生活をしのんでいたようだという。
大井さんは台湾が日本統治下に置かれてから20年後の1915(大正4)年9月、政府の命で台湾総督府に勤務。さらに1919(大正8)年4月〜1925(大正14)年3月の間は総督府の命を受け台南師範学校に異動となり、数学教師や寮の舎監を務めた。
日本内地に引き揚げた後、大井さんは久しく経ってなおも台南での教師時代の思い出を語っていたという。このため、親類一同は今から20年前の1994年にもこの地を訪ねている。また、家の中を整理している時に大井さんが台湾の学生たちと一緒に撮った記念写真や当時の校舎の様子などを写したものや資料などが出てきたといい、今では台南大学の貴重な財産として同校校史室に保管されている。
一行は大井先生が昔、授業で学生らと交流を深めた校舎を見学し、学生食堂で食事をとった後も名残りを惜しんで学校を離れがたい様子だったという。その後は学校起源の地である三山国王廟や、かつての学校の所在地で台南1級古跡に指定されている赤カン楼(プロヴィンティア城砦)を見学、古都・台南の文化を存分に味わった。(カン=山の下に坎)
桃園空港の南滑走路で改良工事始まる 超大型機の離着陸に対応へ
台湾桃園国際空港では19日から来年1月15日まで南滑走路が大規模な改良工事のため、閉鎖されることになった。
これは同空港にある2本の滑走路が使用開始からいずれも30年を経過し、老朽化が進んでいることから、利用客に快適なサービスを提供できるよう行われるもの。空港側では従来のセメントコンクリートの剛性舗装を改めるほか、航空交通管制施設の更新なども行い、全体的な空港品質の向上に務める。
今回の工事は南滑走路が対象で、全面的な修繕以外に延長・拡幅作業も行われる。工事終了後は超大型旅客機エアバスA380型機の使用が可能になるという。一方、北滑走路については来年旧正月明けに工事を始め、竣工は同年末の予定。
日本時代に殉職した警察官の親族が台湾訪問 霊を慰める
114年前、日本統治下の台湾屏東県で警察官として勤務中に暴徒に襲われ命を落とした日本人男性の親族が先日台湾を訪問し、地元自治体や地域住民らとともに男性の霊を慰めるというエピソードがあった。
台湾最南端の屏東県恒春鎮を訪れたのは警察官、林由三郎さんの孫に当たる林茂さんと息子の林英臣さん。総理大臣の護衛官を務めたこともある由三郎さんは1900(明治33)年8月25日、[虫尋]広嘴派出所で勤務していた際、暴徒の鎮圧に出動したところ、張界と名乗る男に襲われ、36歳の若さで帰らぬ人となった。生まれ故郷の栃木県佐野市には地元の人たちによって建立された殉難の碑が残されている。
英臣さんらは由三郎さんが殉職した地点と遺骨を探そうと、曹啓鴻屏東県長の日本人の友人を通じて県に協力を依頼。恒春戸政事務所の担当者らの尽力の下、当時の地名を手がかりに、勤務していた派出所と龍水里・草潭の事件現場を見つけ出した。
協力した陳進吉さん(91)によると、由三郎さんの遺体は地元住民の手によって水葬され、その後埋葬し直されたというが、具体的な場所を特定するまでには至らなかった。それでも、英臣さんたちは勤務先だった派出所の跡地で由三郎さんの霊を供養し、県関係者の協力に感謝の気持ちを伝えたという。
台湾・花蓮で与那国町の中学生らが“日本文化”体験 「びっくりした!」
沖縄県の与那国中学校と久部良中学校の生徒ら一行計30人は18日、台湾東部の花蓮市役所を表敬訪問した。田智宣市長は修学旅行で来訪した“お客さん”たちを歓迎するとともに、教育や経済交流などを通じて双方の関係が増進し、お互いが深い絆で結ばれることに期待を寄せた。
1982年に姉妹都市提携を結んだ花蓮市と与那国町は、両地の直線距離が僅か110キロと近いことから、経済、農業、医療・衛生、教育、交通などさまざまな分野で盛んな交流が行われている。
生徒たちは花蓮に到着後、地元の市役所や日本統治時代からの建造物で人気スポットでもある「将軍府」を見学したほか、日本語書籍が多く所蔵される府内の図書室「南方文庫」で蔵書を熱心にめくったり浴衣を試着したりするなど、台湾での“日本文化”体験に興味津々だった。
花蓮市では今回の台湾訪問でグローバルな視野を身につけてもらえればと期待しているが、「日本人が多く台湾に来た感じがしなかった」と学校のウェブサイトで訪台の感想を綴った生徒もいたようだ。
MRT空港線 来年末の開業に向けた点検作業を開始
交通部高速鉄路工程局は18日、建設が進むMRT空港線で今年から信号システム関連の点検作業を開始したと発表した。2015年末の開業を目指す。
信号システムと電気ケーブルなどのトラブルで開業が延期されていた空港線の点検作業は今年1月中旬から始まって、来年には試運転を行いたいとしている。高鉄局の胡湘麟局長によると、MRT空港線工事の進捗状況は91.77%まで進んでいるという。
計画では空港線は台北−桃園空港間を最速35分、台北−中レキ間は各駅停車が70分で結ぶ。運賃については今年末に正式決定するとしているが、台北−桃園空港間の場合、停車駅が少ない優等列車の利用で160台湾元(約540円)、各駅停車で80元(約270円)を想定している。(レキ=土へんに歴)
一方、空港線の開通後は台北−桃園空港間を運行する高速バスに影響が及ぶことが予想されている。国光客運では同区間を45〜50分、125元(420円)で結んでいるが、来年末を目途に値下げに踏み切り、顧客を取り込みたいとしている。
東アジア史が凝縮されたような台湾 どこへ向かうのか
台北でタクシーに乗って行き先を記したメモを見せると、「漢字が読めない。言葉で指示してくれ。僕はミャンマーから来たのでね」と運転手に言われた。
1949年、中国共産党との内戦に敗れ、中国大陸を失った蒋介石と国民政府は台湾に逃れたが、一部はタイ北部やミャンマーに残り、後に現地に定住したり台湾に移住したりした。運転手はその中国国民党軍兵士の子孫だったのだ。
あるとき日本料理店で隣り合わせた86歳の日本婦人は、「国共内戦で主人と一緒に台湾に来たのよ」と話した。満州国時代に現地の男性と結婚、台湾に移った。
総統府は今月、国防や外交、対中政策の方針を決める国家安全会議秘書長に駐米代表(大使に相当)の金溥聡氏(57)を任命する人事を公表した。金氏は孫文が倒した清朝の最後の皇帝で、後に満州国皇帝に就いた愛新覚羅溥儀の一族の子孫だという。その金氏の後任の駐米代表に内定したのは沈呂巡駐英代表(64)。こちらはアヘン戦争で有名な清の名臣、林則徐の子孫だ。
東アジア史が凝縮されたような台湾は先日、中国と初の当局間直接交流に乗り出した。この先どこへ向かうのか、興味は尽きない。
フォックスコンの郭董事長、世代交代を示唆―中国メディア
台湾・鴻海(ホンハイ)精密工業傘下のEMS(電子機器受託生産)大手、富士康科技(フォックスコン)の郭台銘董事長はこのほど、一部事業を切り離し若いリーダーとの世代交代を図っていくなど、会社の将来設計について語った。機械設備の製造業務から、今後は台湾の若い企業家のサポート、付加価値の高い雇用創出などに事業目標が広がっているという。2月19日付け騰訊科技網が伝えた。
フォックスコンはまた、米アップルやその他メーカーのOEM(相手先ブランド製造)に依存している現状をぬけ出すため、通信サービスやソフトウエアなどへの事業拡大を図っているほか、中国ではなく顧客企業の拠点近くに生産工場を建設することに注力している。郭董事長によると、同社は米国に大型パネルの生産工場建設の準備を進めており、今年第4四半期から米テレビメーカーVizio(ビジオ)の120インチテレビ用パネルの量産を開始する予定だという。
1月の訪日客数は41.2%増 韓国4カ月ぶりプラス、中国は倍増
日本政府観光局が19日発表した1月の訪日外国人客数(推計値)は、前年同月比41.2%増の94万3900人で、12カ月連続で前年同月を上回った。1月としては過去最高で、単月で見ても昨年7月(100万3032人)に次ぐ2位を記録。円安による訪日旅行の割安感が浸透したほか、東南アジアの訪日客へのビザの発給要件が緩和された効果も持続。韓国からの訪日客数が4カ月ぶりにプラスに転じ、中国が倍増したことも数値を押し上げた。
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国・地域別に見ると、首位は韓国で前年同月比9.0%増の25万5500人。東京電力福島第1原子力発電所の汚染水漏れが嫌気され、昨年10月から3カ月連続で前年同月を割り込んでいたが、30日からのソルラル(旧正月)連休などでプラスとした。2位は台湾で76.8%増の19万6900人、3位は中国で約2.2倍の15万5700人。ともに、昨年は2月中だった春節(旧正月)の連休が1月末にまたがったこともあり訪日客が大幅に増えた。
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訪日客数は昨年1年間で1036万4000人に達し、初の1000万人の大台を突破。政府は、2020年開催の東京五輪などを弾みに2000万人に
中台統一派の学者、独立派を批判=「アヒルは死んでもくちばしが硬い」―香港メディア
人民日報海外版によると、香港・中評社は、日本問題専門家で、中台統一派として知られる許介鱗(シュー・ジエリン)氏のインタビューを掲載した。
許氏は1935年台湾新竹生まれ。東京大学で法学博士の学位を所得し、台湾大学法学院と社会学院の院長を歴任した。専門は日本の政治経済・外交、日中関係、台湾現代政治史。
日本の文部科学省が1月27日、中学校と高校の学習指導要領解説書を改定し、尖閣諸島(中国名:釣魚島)と竹島を「我が国固有の領土」と明記する方針を明らかにしたことについて、許氏は「台湾は中国と共同で、釣魚島が中国のものであることを強調した歴史教科書づくりを推進すべきだ」と指摘した。
許氏はまた、台湾の王郁[王奇](ワン・ユーチー)大陸委員会主任の中国訪問を評価した上で、「韓国は中国と経済関係を深めてきた。台湾はアジアや欧州の国と国交がない。中国との経済関係強化を急ぐべきだ」と強調した。
許氏は、「戦時中、『日本帝国万歳』『天皇陛下万歳』と叫んでいた台湾の人々の声が、日本敗戦の翌日にはぴたりと止んだ」と自身の体験を語った上で、「大勢の向かうところに人々の主張は改まるものだが、台湾独立を主張する人は、『アヒルは死んでもくちばしが硬い』という俗語のように、考えを改めない」と批判した
同化か、自治か―台湾に憲政を求めた林献堂の方針転換
(梁啓超)
東アジアの近代を考える上で梁啓超(リアン・チーチャオ)の存在感は大きい。日本統治下における台湾民族運動の立役者として知られる林献堂(リン・シエンタン)もまた政治的方向性を模索する中で梁啓超からの影響を受けていた。
東アジアの近代を考える上で梁啓超(リアン・チーチャオ)の存在感は大きい。日本統治下における台湾民族運動の立役者として知られる林献堂(リン・シエンタン)もまた政治的方向性を模索する中で梁啓超からの影響を受けていた。
(林献堂)
1907年に27歳だった林献堂は初めて東京へ行った。当時、戊戌の政変(1898年)に敗れて日本へ亡命していた梁啓超は横浜で「新民叢報」社を設立して、清朝の立憲改革を求める言論活動を精力的に展開していた。かねてから梁啓超の盛名を聞いていた林献堂は是非とも面会したいと思い、横浜の彼の寓居を訪問したが、あいにくなことに不在。後ろ髪を引かれる思いで立ち去ったが、台湾へ帰る途中に寄った奈良で、旅行中だった梁啓超と偶然に出会う。
梁啓超は広東訛り、林献堂は●南語(●=もんがまえに虫)を話す。二人は言葉が通じないため筆談で語り合った。漢民族意識の強い林献堂は日本の植民地とされた台湾の苦境を訴えたが、梁啓超の返答はこうだった。「中国には今後30年間、台湾人を助ける力はない。だから、台湾同胞は軽挙妄動していたずらに犠牲を増やすべきではない。むしろ、大英帝国におけるアイルランド人のやり方を見習って、日本の中央政界の要人と直接結び付き、その影響力を利用して台湾総督府を牽制する方が良い」(注1)──当時、アイルランド自治法案の可決に努めていたイギリス自由党のグラッドストン内閣を念頭に置いていたのだろう。
林献堂の熱心な招待を受けて梁啓超は1911年3月に台湾を訪れた。梁啓超としては、自らの立憲運動や新聞事業のため募金集めをしようという思惑があった。林献堂は連雅堂(リエン・ヤータン、『台湾通史』の著者で、連戦・元副総統の祖父)を伴って日本からの船が到着する基隆まで出迎え、そこから汽車へ同乗、台北駅に降り立った梁啓超は多くの人々から熱烈な歓迎を受ける。
梁啓超は台湾各地を回って在地の名士たちと語り合った。言葉は通じないので筆談となるが、儒教的伝統の知識人は詩文を取り交わすのが習わしだから問題はない。しかし、在地の知識人は総督府の専制政治への不満を訴えるものの、梁はむしろ日本統治による近代化を評価しており、両者の考えは必ずしも一致していなかった。ただし、平和的・漸進的に政治改革を進めるべきだという梁啓超の示唆は一定の影響を及ぼす。
中国の伝統的な知識人としての自負があった林献堂は、檪社という詩文グループに属していた。檪とは無用の木のことで、すなわち日本統治下では無用の人間という意味合いが込められている。そのような命名からうかがわれるように、詩社には清朝遺民の気風を持つ知識人が多く集まっていた。台中の檪社の他、台北の瀛社、台南の南社が有名で、こうした人的ネットワークが梁啓超歓迎の際にも機能したのだろう。
■林献堂と板垣退助
梁啓超が台湾を去った1911年、辛亥革命が勃発する。1912年には中華民国が成立し、この機会に乗じて清朝の皇帝を退位させた袁世凱が自ら大総統の地位に就く。梁啓超は袁世凱の招きを受けて財政総長に就任した。
林献堂は1913年に北京へ赴いて新政権の様子をうかがうのと同時に、袁世凱政権と対立関係にあった国民党の要人とも接触する。中国の実情を自ら観察した林献堂は、国内がこのように混乱している以上、台湾を助けるどころではないことを見て取った。その点では、確かに梁啓超が言うとおりである。そうなると、台湾人は自助努力によって目標を達成しなければならない。
第一に武力で日本の統治者に抵抗するのは難しい、第二に現時点で中国には台湾を解放する能力はない、第三に日本統治による近代化は一定の成功を収めている──こうした認識を踏まえて考えるなら、日本統治を当面の前提とした上で権利の向上を図るのが次善の策となる。そこで林献堂は、台湾人の地位や待遇を日本人と同等にするよう求めることに民族運動の最初の照準を合わせた。
林献堂は東京で板垣退助や大隈重信などの政治的有力者に面会を求めた。1914年には二度にわたって板垣を台湾へ招く。かつて自由民権運動の闘士であった板垣は、林献堂の話を聞いて台湾人の置かれた差別的境遇に同情した。他方で、国権論者でもある板垣は、日本の南進政策や「日支親善」の架け橋となることを台湾人に期待していた。
板垣の思想は、尊厳と権利の向上を求める台湾人側の思いとは同床異夢だったかもしれない。いずれにせよ、板垣の肝いりで同年12月20日に台湾人差別の撤廃を目指した「台湾同化会」が成立する。こうした動きを台湾総督府は警戒していたが、板垣の名声を前にしておいそれとは手が出せない。林献堂は「中央政界の要人と手を組め」という梁啓超のアドバイスを的確に実行したわけである。ただし、板垣が日本へ帰ると、翌年の1915年2月に「台湾同化会」は解散させられてしまった。
■台湾にも「帝国臣民」としての権利を、六三法撤廃運動とその転換
1910年代以降、日本へ留学する台湾人が増えつつあった。植民地台湾とは異なり比較的自由な東京で先進的な知識や思想に出会った彼らは植民地体制の矛盾をますます認識するようになり、そうした気運は台湾民族運動を新たな方向へと導くことになった。東京にいた台湾人留学生が議論を交わした最重要のテーマが「六三法撤廃」問題である。
台湾も大日本帝国の版図に含まれた以上、本来ならば日本人と同様に帝国臣民としての権利を享受できるはずである。ところが、日本政府は植民地統治の特殊性に鑑みて台湾における憲法の施行を保留し、明治29年法律第63号(通称を六三法といい、その後、明治39年法律第31号に引き継がれる)によって台湾総督の栽量による法律制定を可能にしていた。
つまり、台湾総督府の専制的統治を批判し、台湾も憲政の枠内に組み入れるよう求めるのが「六三法撤廃」問題の要点である。こうした考えから林献堂たちは「六三法撤廃期成同盟」を設立して運動を展開した。板垣退助と共に設立した「台湾同化会」も同様の考え方に基づいていたと言える。
ところで、六三法を撤廃して台湾を日本の憲法の枠内に組み込むと、台湾人を権利面で同等な立場に引き上げることはできるかもしれない。他方でそれは、台湾人を日本人に吸収=同化させてしまうことにならないか?
ちょうど第一次世界大戦が終わり、ウィルソンの提唱した民族自決の原則が世界中で大きな反響を巻き起こしていた時期である。留学生たちはむしろ、台湾の特殊性を強調して台湾自治のための議会設立を優先させるべきだと考えた。こうした論争を受けて、林献堂も1920〜21年頃に六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動へと方針を転換させる。
■内地延長主義と特別統治主義、同化主義と民族的自治
憲法を台湾に施行して台湾人にも日本人と同様の権利・義務を持たせる考え方を内地延長主義といい、六三法撤廃運動はこれに依拠していた。しかし、こうした方向性は民族主義的な立場からすると日本人への同化主義と捉えられる。対して、台湾の特殊性を理由として日本内地とは別建ての統治システムを実施することを特別統治主義という。六三法によって憲法を棚上げした台湾総督の統治はその具体化であった。
他方で、これを台湾の特殊性を認めるものと捉えるなら、同化を拒む民族主義的な立場からは自治への方向性を読み取ることも可能である。日本人か、台湾人かという立場の相違、専制的統治か民主的統治かという方向性の相違によって解釈は異なってくるが、いずれにせよ、六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動への方針転換は、権利向上重視から民族的独自性重視への思潮の変化として捉えることができる。