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台湾・李登輝元総統の東京講演会

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李登輝講演を聞いて(1)「伝える者」としての誠意あふれる姿勢に感銘


 
9月21日の、台湾・李登輝元総統の東京講演会に出かけた。李元総統は主に、これからの日本のあるべき姿について考えを語った。思索の過程と、自らの思索を他者に理解してもらおうという誠意ある姿勢に、大いに感銘を受けた。聴衆も李元総統の言葉を、ひとつでも聞きもらすまいと熱心に聴き入った。会場を、さわやかな緊張感が満たした。


 9月21日の、台湾・李登輝元総統の東京講演会に出かけた。李元総統は主に、これからの日本のあるべき姿について考えを語った。結論そのものは、これまで示してきた考えの方向性に沿ったもので、それほど目新しいものではない。しかし、結論に至るまでの思索の過程と、自らの思索を他者に理解してもらおうという誠意ある姿勢に、大いに感銘を受けた。聴衆も李元総統の言葉を、ひとつでも聞きもらすまいと熱心に聴き入った。会場を、さわやかな緊張感が満たした。

 李元総統がまず指摘したのは、米国の力が凋落していることだ。アジアにおいても軍事力を十分に行使できない状況になったとして「今や世界は、指導する国家なき戦国時代に入った」、「これをアメリカの政治学者、イアン・ブレマー氏は『Gゼロの世界』と呼んでいる」と論じ、日本人に対して「混沌とした時代」の中で自国が生き抜いていくために、何が必要か真剣に考える必要があると説いた。

 そして、安倍首相が7月に、集団的自衛権の行使を認める決断をしたことについて、「アメリカは時をおかずして『歓迎する』との声明を発表しました。わたくし李登輝も大歓迎であります」、「決断した安倍総理には心から敬意を表したいと思います」と述べた。

 李元総統は、日本国憲法を「戦勝国アメリカが、日本を2度と、アメリカに歯向かわせないように押しつけたもの」と主張。第9条で軍事力を持つことが禁止されていることを特に問題視し、「軍事力を保持することが、すなわち戦争を引き起こすことを意味するものではありません」と繰り返し主張した。

 さらに「自分の身を自分で守る」ことは国際社会における原則と指摘し、憲法に軍事力の放棄を盛り込んだ日本が、戦後数十年にわたって国家にとって致命的な問題に遭遇せずに済んだのは「アメリカによる支援と幸運あったからにほかなりません」との考えを示した。

 写真はサーチナ編集部が21日の講演会場で撮影。李元総統はときおり「もう91歳です」などと語りながらも、明晰な論理と際立つ情熱で、健在ぶりを示した。

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 李元総統は、日本語で講演を行った。生まれは1923年。周知のように、日本統治下の台湾出身だ。京都帝国大学で学んだ。終戦時、21歳だった。若き頃に磨きをかけた日本語は流暢だ。しかし、今回の講演で驚いたのは、その日本語のレベルではない。聴衆に語りかける情熱だ。生本番の講演ということで、口ごもったりすることは時にある。しかしそれは問題ではない。

 手元の原稿を目を落とすことはあるが、できるかぎり聴衆の目を見つめ、自分の考えを伝えようと、力強く語る。聴衆も李元総統の言葉を、ひとつでも聞きもらすまいと熱心に聴き入る。伝えようとする者、受けとめようとする者が真剣に向かい合った。会場を、さわやかな緊張感が満たした。


李登輝講演を聞いて(2)奥の深い「哲人政治家」の本領と誠実さを披露

 9月21日の、台湾・李登輝元総統の東京講演会に出かけた。李元総統は、自らの結論に至るまでの思索を、かなり詳細に説明した。聴衆に対する誠意を強く感じた。そして、李元総統に続く世代の政治家で、ここまで物事を掘り下げて、思索を重ねている人が、どれだけいるだろうと考え込んでしまった。


 9月21日の、台湾・李登輝元総統の東京講演会に出かけた。李元総統は主に、これからの日本のあるべき姿について考えを語った。李元総統は、自らの結論に至るまでの思索を、かなり詳細に説明した。聴衆に対する「私の語ることを理解していただきたい」、「自分自身でしっかりと考えていただきたい」という伝え手としての誠意を強く感じた。そして、李元総統に続く世代の政治家で、ここまで物事を掘り下げて、思索を重ねている人が、どれだけいるだろうと考え込んでしまった。

 李元総統は、講演の冒頭部分でまず、日本国憲法、とくに軍事力を持つことを禁止する第9条を、「戦勝国アメリカが、日本を2度と、アメリカに歯向かわせないように押しつけたもの」と主張。自らの国を自らで守るという国際社会における原則を放棄した日本が、これまで危機的状況に遭遇することがなかったのは米国の支援と「幸運」があったからと論じた。

 そして、米国が凋落し、指導者たる国家がなくなった現在の国際情勢のもとで、日本は自らが生き残ろうとすれば「真の自立した正常な国家となる」ことが不可欠であり、そのためには憲法修正という問題に、向かい合わねばならないとの考えを示した。さらに軍事力を持つことと戦争をすることは同じではないと、繰り返し主張した。

 結論を論じた次に、李元総統の話はいよいよ、論点の中核となった。人類の平和、アジアの平和を求めるには、まず「人間とはなんぞや、から始めねばなりません」と主張。そして、人とはこの世に生まれてから、からならず「他者との分離」を通じて自我を形成すると指摘した。

 李元総統は旧約聖書の創世記から多く引用した。例えば、天地創造についての記述だ。「神の天地創造は『分離と区分』とにもとづいて混沌に道筋を与えることによって、なしとげられている」と指摘。「神は光と闇を分け、大空のもとに上と下に水を分けて天を作り、最後に乾いたところから水を分けて海と陸を作った」、「それまでおたがい溶けあったものを分かつことによって、初めて時間が成立する」、「光と闇、上と下、男と女、といった分離過程こそは、生まれると同時に飲み込まれる永遠の一体性に終止符を打つものである」などと説明した。

 政治の話の中で、なじみの薄いキリスト教関連の説明が続いたことで、やや戸惑いを感じた聴衆がいたのも事実だ。しかし、李総統の論旨は、その後に続く部分で、極めて明確になっていった。

 まず、人とは、生まれた当初は周囲の世界をすべて「混沌」としたものとしか認識できていないが、やがて「自我」と「他者」を異なったものと認識するようになるという事実だ。さらに言えば、他者を自らとは異なったものと認識することこそが、「自我」の出発点だということだ。

 李元総統は、このような「自我」の確立には勇気が必要とも述べた。さらに「自我」と「他者」の存在をはっきりと認めてこそ、「人間の生は戦いであるのみでなく神から許されたよろこびでもあり、苛酷な労働であるのみでなく、神の贈り物でもある」、「生きることを喜び、ほろびゆく人間ははじめて、自己と異なる他者の存在とも連携・連帯していける」と説明。

 李元総統は聖書の引用に加えて、「人類の古い神話はそのシンボルとして個人の生活史の中で繰り返される生命の原理を示すゆえに、きわめて実際的な意味を持っていることがわかる」と述べた。つまり自らの信仰とは別に、聖書の記述を「人類の古い神話」、「シンボル」と説明することで、議論を「キリスト教(あるいはユダヤ教)信者でなくとも、多くの人が納得できる」ものにするように努めた。李元総統はさりげなくつけ加えただけだが、発言のこういった部分からも、台湾に民主的社会をもたらしたリーダーとしての「深み」を感じた。

 このあたりで、李元総統がなぜ、平和の問題を語るのに聖書の引用を行ったかが、明らかになりはじめた。人は、自我とは異なる他者の存在をしっかりと認めねばならないということだ。国際社会の問題を考える上でも、自国とは立場も利益も主張も発想も異なる他国が厳然と存在していることを認識せねばならない。

 相手が自分と同じように考え行動すると無条件かつ安直に信じることは、むしろ甘えでしかない。そして自己が存在する喜びを知り、同時に他者の存在をしっかりと認識してこそ「自己と異なる他者の存在とも連携・連帯していける」との考え方だ。

 日本などでは、キリスト教的な発想について「人と自然を対立的にとらえている」、「人が自然を支配することが前提」との批判的見方がある。はなはだしい場合には「自然破壊の元凶となる発想」との主張すらある。

 李元総統は、「自己」と「他者」のそれぞれの存在をしっかりと認めることにより、自然との共生にも目を開かざるをえなくなると主張。自然を他者であるとしっかり認識せねば、「自然の生命の無限性に甘える」ことになりかねず、むしろ、「自然もまた同じ神の被造物であり、有限の生命を持つ」と認識することが重要であり、「自然の権利を守るためには、自覚的人間の管理の責任が問われる」と主張した。

 李元総統の自然観は、日本人の伝統的な自然観とは異なる面がある。日本人の多くは「人と自然は一体のもの」と考えてきた。しかし考えてみれば、人類の産業活動がこれほど活発になった現在、「人と自然は一体」と無頓着に“感じて”いるだけでは、人の都合を自然の側に安直に押しつけかねないとも言える。その意味で、李元総統の「自然を他者と考え、自然の側が持っている権利をしっかりと守る」という自然観は傾聴に値する。

 写真はサーチナ編集部が撮影。李元総統は平和と戦争の問題を「人間とは何か」という思索から説き起こし、哲人政治家としての本領を改めて示した。

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 日本人には、周囲との一体感を重視する発想が強いとされる。もちろん、「一体感重視」という日本人の傾向が、よい結果をもたらした事例は枚挙にいとまがない。例えば、東日本大震災発生直後に多く見られた「団結心」だ。自らが何らかの「チーム」に属していると感じた時、日本人は自らを「チーム」と一体と感じ、突出した底力を発揮することが多い。

 しかし、周囲との一体感ばかりを重視したのでは、「甘え」というよくない現象が発生しやすいのも事実だ。李元総統は、「自己」と「他者」の関係で、対決だけが存在すると説いたわけではない。むしろ、他者との連帯・連携・共生を得るに至る心のメカニズムを強調した。

 李元総統の主張をさらに延長すれば、同じチーム内に「異なる自己と自己、つまり自分自身と他者が存在する」と認識していても、それがチームの結束を減じる原因にはならないことになる。チームの結束が崩れるのはむしろ、他のメンバーに甘えあうことで蓄積された矛盾が表面化した場合に起こるが多い。つまり、甘えを先行させるのではなく「同じチーム内であっても、他者には他者としてきちんと向き合わざるをえない」との李元総統の考え方はむしろ、日本人が持つ団結心や他人を思いやる心をより上質なものにしていくための、大きなヒントとなるものだ。

 李元総統の「自己・他者観」、「世界観」は講演の続きの部分の、「母との“別れ”」、さらに「平和と戦争の問題」の部分で、いよいよ明らかになる。


李登輝講演を聞いて(3)平和の問題で「空論」を排除、国を守るリーダーの責任を強調

 9月21日の、台湾・李登輝元総統の東京講演会に出かけた。李元総統はこれからの「他者」という存在に向き合わねばならない国際政治において、自らを守る戦力はそれぞれの国に必要なものとの論説を展開。「日本と台湾は運命共同体」と主張した上で、「日本が真の自立した国家として歩むことを心より期待」すると述べた。


 9月21日の、台湾・李登輝元総統の東京講演会に出かけた。李元総統はこれからの日本のあるべき姿について「人の本質とは何か」という問題から説き起こした。まず、人とは「自己」と「他者」という異なる存在の分離という現実にかならず向き合わねばならないと主張。つぎに「自己」と「他者」の分離が、どのような様相をもたらすかについて説いた。そして、「他者」という存在に向き合わねばならない国際政治において、自らを守る戦力はそれぞれの国に必要なものとの論説を展開。「日本と台湾は運命共同体」と主張した上で、「日本が真の自立した国家として歩むことを心より期待」すると述べた。

 「自己」と「他者」の問題について李元総統は次に「自分史」を披露した。李元総統の母は、李元総統を溺愛していたという。李元総統は母の愛情に感謝しつつも、「このままでは、自分がなくなってしまう」と直感し、「中学校受験のためにはどうしても必要」との理由で家族を説得し、12歳の時に家から離れて淡水の街で生活することにしたという。

 そして、教師や友人の家で「居候」の生活を始めた。実家にいた時には食事になれば何も言わずとも、母が豚肉の一番美味しいところをどっさりと盛ってくれるような生活だったが、家を出てからはまさに「3杯目には、そっと出し」という状況だったという。

 しかし李元総統は、居心地のよい家を出たことは自らの成長過程において必要不可欠であると感じたからこその「人間としての本能的な選択」だったと表現し、人間の生涯の過程では「分離と結合」、「自由と不自由」が繰り返されると説いた。

 李元総統は話を「戦争と平和」の問題に進めた。まず、「戦争はいけない」、「戦争はやむをえない」といった「価値判断ばかりが先走った議論」が多いと批判。そうではなく、現実の世界において「平和がどのように可能となるか」を考えねばならないと主張した。引用したのはトルストイの「戦争と平和」だ。

 「戦争と平和」は、ナポレオンによるロシア侵略の時代を描いた作品だ。李元総統はトルストイの言葉を引き、「数百万もの人間が互いに殺し合う」という事態が、「肉体的にも精神的にも悪だと分かっている」にもかかわらず発生した現実を踏まえ、戦争は人間の本能が必然的に起こすものとのトルストイの考えに対する同感を示した。

 李元総統は一方で、「平和を求めたい、というのは大部分の人間の希求」とも説いた。しかし、争いを始め戦争を起こしてしまうという人間の本質にもとづいて考えれば、「首尾一貫した原理原則の適用は不可能なことと言わざるをえません」、「可能なのは、具体的な状況の中から、平和の条件を探ることにすぎません」と主張した。

 李元総統は、人間というものが戦争を起こすという本能を持っているからには「平和のためにすべての武器を廃絶すべきだと言う考えは、実現不可能なユートピア」、さらに、戦力放棄とは自ら侵略に身をさらす事態を招く「愚かな行為」と批判した上で、「平和についての議論は実は、平和そのものではなく、それと実現する方法をめぐる争いの歴史なのです」と指摘した。

 また、国際社会の主体は国家と説明し、「各国がその存続のために権力を行使するかぎり、国家間の協力関係はごく限られたこの範囲にしか成立できません」、「国と国との関係は、非常にせまい範囲の利益関係のもとにしか結局、共存関係は作られません」との現実を、聴衆に突きつけた。

 さらに、国内政治の場合には政府が「その暴力を背後に法を執行することも可能」だが、国際社会では国連を含め「それぞれの国家に対して強制力を行使することができる法執行の主体は存在しません」と断言した。

 李元総統は続けて「国境を超えた交易や人の行き来がどれほど拡大しようとも、武力にたよらない国防を実現する保証は、決してないのです」、「国際政治の安定を考える上で、各国の間の抑止、威嚇、力の均衡を無視することができないかぎり、政策の手段としての武力の必要性を排除することは考えられません」、「古今東西の別なく、人類の歴史は異なる組織集団の分離・統合の繰り返しです」と主張した。

 李元総統の話は次に、「リーダー論」となった。「組織や共同体の幸・不幸、繁栄・滅亡は指導者によって強く影響される」、「指導者の持つ力と使用できる条件が、組織の盛衰を左右し、興隆と滅亡を決定づける鍵となる」と指摘し、1996年に台湾で歴史上初めて実施した総統の直接選挙の際の状況を例に説明を続けた。

 中国は民主化実現という台湾の動きに猛反発し、選挙期間中にミサイル数発を演習と称して台湾沖に打ちこんだ。李元総統は、中国の台湾に対する「戦争をも辞さないという恐喝」だったと説明。李元総統は中国によるミサイル発射という事態を受け、テレビ演説で「弾頭は空っぽだ。こちらはいくつものシナリオを用意し、いつも応対できる。心配する必要はない」と国民に訴え、選挙を無事に実施することができたと紹介した。

 李元総統は「もし私があの時、中国のミサイルの威嚇におじけづいて、動揺したり戒厳令をしいたりしたら、中国の思う壺だったばかりか、国民からの信任も得られなかったでしょう」と語り、「私が強い信念と手段をもって対抗からこそ民主政権は実現したと、信じています」と述べた。

 李元総統は改めて日本の憲法問題に触れ、「国の根幹をなす、(国のあり方を)規定する憲法で、戦力を保持しないということを規定していることは、自らの生存を放棄している、もしくは他者の手にゆだねていると取られかねません」と、日本の現状は極めて危ういと指摘。「戦力を保持することが、すなわち戦争をするということではありません。この言葉は大切です」と改めて強調した上で、「日本では、国が戦力を持つことは戦争をすることだ、などということを言う人が非常に多い」と批判した。

 そして再び、米国は日本をこれ以上支持する力を失ったと主張。さらに「正直に言えば、日本がアメリカに頼る以上に、アメリカは日本に何か頼み込んでおります。こういうことを感じ取らねばなりません」と、国際情勢の変化に敏感に気づくことの重要性を訴えた上で、「日本人ひとりひとりが志を持って行動することが不可欠なのです」と述べ、誇りと自信こそが日本精神との持論を披露した上で「日本人が持つ日本精神、これに待たなければなりません」と、日本人に対して改めて覚醒を求めた。

 李元総統は日本について、「どこに向っていくか、その規模はどこに置くか(どの程度にするか)、どういうことをやるべきか、そういう状態に置かれております」と主張。単に戦力を持てばよいというわけでなく、方向性や目指すべき規模、すべきことなど、国家としての方針を明確に定める必要があるとの考えを示した。

 李元総統は講演の最後の部分で、日本が正しい道を歩むことが「結果的にアジアの一層の安定と平和につながり、日本と台湾のさらによい関係をもたらすことになるでしょう」と主張。「日本と台湾は運命共同体です。日本がよくなれば台湾もよくなり、その反対もしかりです」との見方を示し、「日本が真の自立した国家として歩むことを心より期待して、私の今日の話を終ります」との言葉で講演内容を締めくくった。

 写真は講演を終えて、主催者側に向い会心の笑みを浮かべる李登輝元総統。左側は夫人の曽文恵さん。今回の来日には、娘さん2人も同行した。一家そろっての来日は初めてと説明する李元総統に、会場の聴衆は惜しみない拍手を送った。

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 平和と心の関係に触れた有名な文言としては、ユネスコ憲章冒頭の「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」がある。李元総統は、人間の本性と国際社会の現実から判断すれば、理念面からの平和を希求するだけではまったく不足であり、日本を含む国家という存在は、実際に戦争を抑止する手段を持たねばならないと主張した。

 また、「国を守る。人民を大切にする」ことは指導者としての責任であり、自らが総統を務めていた時期にも強く意識していたと述べた。

 李登輝元総統の主張については、全面的に賛同する人、部分的にしか賛同できない人、全面的に否定する人など、さまざまだろう。ただ、李元総統は長い人生におけるさまざまな体験や知見により、日本と現実に生きる日本人の長所も短所も熟知している。しかも中国と対峙しながら台湾の指導者として民主化を実現させたという実績がある。それだけに李元総統の発言は極めて重い。仮に反論するにしても、李元総理に匹敵するだけの思索や経験が背景になければ、表面的な反発の言葉を並べることに終始してしまうことになりかねない。

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 中国政府で台湾問題を扱う国務院台湾事務弁公室は、李元総統の日本における発言を取り上げ、「この人物の演技は再び、彼の一貫した本性を暴露することになった」と主張。台湾の一部メディアの言説を取り上げ、「よいことを言っている。日本の右翼勢力は台湾独立の命を救うことはできないということだ。両岸関係を不断に推進してこそ、手をたずさえて中華民族の偉大な復興を実現することができる。それこそが台湾同胞の利益のある場所だ」などと表明した。

 また中国の一部メディアは李元総統の訪日について「(日本における台湾や中国に対する見方を)撹乱(かくらん)することはできないだろう。日本はさして熱意を示していない」などと、李登輝元総統が日本で冷たくあしらわれているように報じた(19日付中国新聞社)。

 一方で、台湾メディアは「講演2カ所。申し込み殺到」(14日付自由新報)、「情熱込めた『万歳』の声で出迎え! 李登輝旋風が東京を吹き荒れた」(21日付三立新聞網)などと、日本に多くの李元総統の熱烈な支持者がいることを伝えた。

 現実に即して考えれてみれば、元首職を退いてから約15年もが経過する外国の政治家の言動に、これだけの注目が集まることは異例だ。9月20日の大阪講演は1600人、東京では600人という定員だったが、申し込みが殺到し定員に達したため、受け付けは打ち切られた。また李元総統の今回の来日は、国際交流団体の日本李登輝友の会の招きだった。外国の元指導者への共感と尊敬を軸に、継続的にこれだけ活発な活動を続ける団体は、他に例を見ない。

 中国大陸当局は、李元総統に徹底的に反発している。しかし、大陸側が今もなお、李元総統に対して批判や非難を続けざるをえないことは逆に、李登輝元総統の存在の大きさを示していると言える。






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